キングダム趙の幽繆王(ゆうぼくおう)は暗君?李牧処刑の史実と最後を考察

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キングダムは中華統一を狙う秦王・政とその政に若い頃に出会った李信の物語ですが、敵国に趙という国が存在しています。

この趙には李牧という名軍師であり武勇にも秀でた武将がいますが、残念な王が登場してきます。

そのうちの一人、悼襄王(とうじょうおう)は李牧を処刑しようとしましたが、その前に死亡することが確定。

その後に名君の器と評された太子(次の王位を継ぐ王子)・嘉が趙王になるかと思いきや、この太子・嘉が悼襄王に李牧処刑を思いとどまらせようとしたため、悼襄王は生前に次の王を嘉ではなく、末子の遷に継がせることを決断していました。

玉印も押してある正式な遺書の中で悼襄王はそう記していたため、悼襄王亡き後に趙王になったのが遷で、これが幽繆王(ゆうぼくおう)ということになります。

それではこの幽繆王はどのような最後を遂げることになるのか?

また史実での記録にはどのように描かれているのでしょうか?

今回はこの点にスポットを当ててみます。

最後までお楽しみください♪

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Contents

   
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キングダム幽繆王(ゆうぼくおう)の史実は

幽繆王の在位は?

まず幽繆王(ゆうぼくおう)の史実での姿を見ていくことにしますが、幽繆王が王位についていたのは紀元前236年から紀元前228年までだったと伝えられています。

幽繆王が王位についた紀元前236年は、秦の鄴攻めが行われた年で、この年に父親の悼襄王(とうじょうおう)が死亡しています。

ここでなぜか、悼襄王は嘉の太子としての地位をはく奪しています。

その理由は史実では定かではありませんが、そのために弟の遷が王位につくことになり、幽繆王誕生につながっていきます。

しかしこの幽繆王は暗愚な王であったことが史実にも記されています。

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悼襄王が太子を変更した理由は幽繆王の母親が原因?

では太子が嘉から遷に変更されて理由は何だったのでしょうか?

この点については幽繆王の母親が関係していたことが史実では記録が残されています。

幽繆王の母親だったのは、悼倡后(とうしょうこう)という女性です。

この女性はキングダムでは江姫(こうひ)という名前で描かれていますが、史実では姓名は不明。

この悼倡后という名前は悼襄王の后だったことと、趙の王都・邯鄲(かんたん)の倡(しょう)という土地の出身だったことから、こう呼ばれているのかもしれません。

この悼倡后は美しい女性だったようですが、最初に結婚した相手の家族を混乱させたために離婚されています。

そんな悼倡后を見てビビっときたのか、悼襄王は悼倡后を妻として迎え入れようとします。

李牧はこのことに反対していたそうですが、しかし悼襄王は李牧の忠告を聞き入れずに悼倡后を迎え入れることになります。

李牧が反対した理由としては、彼女が相手の家族を混乱させた過去があり、同じような混乱を王家内にもたらすわけにはいかない。

そんな意図があったように思います。

それはともかく、この悼倡后は悼襄王に迎えられてから遷を生むことになります。

ただ次の王は太子・嘉になることが決められていました。

しかしここから女のドロドロした戦いが始まります。

悼倡后は悼襄王から特別に可愛がられていましたので、悼倡后は嘉とその母親をおとしめるため、彼らについてありもしない悪口を悼襄王に吹き込んでいきます。

そしてこの悼倡后は、人を使って太子・嘉を罪に陥れたと伝わっています。

そこで悼襄王は嘉を太子の位から廃嫡(はいちゃく)。

遷を太子に立てることにして、悼倡后を正式な后(きさき)にすることを決断します。

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キングダムでは嘉が悼襄王を諫めたことが原因に?

ただキングダムでは悼襄王が太子を嘉から遷に変更した理由については、太子・嘉が李牧の処刑について父親の悼襄王を諫めたことが理由となっています。

キングダムは龐煖の姿など、史実とは少し違うところがありますが、この悼襄王の後を継ぐ太子が変更された点も史実とは少し異なっていますね。

この時のキングダムでの悼襄王は、太子・嘉の右耳を噛みちぎっただけでは飽き足らず、嘉の太子の廃嫡(はいちゃく)まで行っています。

とはいえ悼襄王の子供のうち、男子は嘉と遷だけだったのでしょうか?

他にも男子がいたとすれば、なぜ遷が太子に選ばれたのか?

この点はまだ明らかにされていません。

キングダムでは今後、遷が太子に選ばれた理由が描かれることがあるのかもしれませんし、江姫が史実と同じような何らかの悪口を吹き込んだ場面が、今後どこかで描かえるのかもしれませんね。

 

 
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幽繆王は李牧を処刑した張本人?

幽繆王、李牧を大将軍に任命す

またこの遷こと幽繆王(ゆうぼくおう)は史実では李牧を大将軍に任命しています。

それは紀元前233年のことでしたが、その前の年に趙は桓騎によって扈輒(こちょう)将軍を失うと共に、10万人にも及ぶ兵も失うほどの敗北を喫しています。

そこで切り札として登場してきたのが李牧でした。

史実では李牧はキングダムほどは史実に記録が残っていないんですね、実は。

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それはさておき、大将軍となった李牧は秦軍を宜安(ぎあん)に迎え撃って、桓騎を敗走させたとも討ち取ったとも言われています。

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幽繆王、李牧を処刑す

ただ秦軍を撃退して大活躍をしていた李牧を、幽繆王は捕らえて処刑してしまいます。

それは趙王遷の7年目(紀元前229年)のことでした。

秦は王翦(おうせん)を総大将として趙の本格攻略に乗り出します。

ここで趙は李牧と司馬尚を将軍として、秦軍を迎え撃たせることになります。

この戦いで苦戦した秦は、李牧・司馬尚の排除に乗り出します。

これは当時の秦が戦いを有利に進めるためによく行っていた手法ですが、まず敵国の王が可愛がっている臣下などにワイロを送って懐柔(かいじゅう)。

そしてその懐柔した臣下を通して、排除したい敵将を陥れるための工作を行わせます。

特に謀反を企てているなど、実はありもしない悪口を王に伝えて、王と敵将の仲たがいを狙った離間策(りかんさく)を実施していきます。

ここで秦が目を付けたのは趙の郭開と言われています。

この郭開は歴史上では奸臣(かんしん:邪悪な家来)と評されていますが、キングダムでも王に取り入ることが非常に上手い家臣という印象ですね。

ただこうした臣下が優れた判断力を有しているとは限りません。

こうした臣下は国のことよりも、自分のことしか考えていないタイプが多いでしょう。

実際に郭開は、仲が悪かった廉頗(れんぱ)が趙に戻ることを阻止した張本人でもありました。

そんな郭開は秦から多額のワイロを受け取っていたと伝えられていて、「李牧に謀反(むほん)の疑いあり」との讒言(ざんげん:ありもしないことを目上の人に伝えること)を幽繆王に伝えています。

また秦からワイロを受け取っていたのは郭開だけではなく、幽繆王の母親である悼倡后(とうしょうこう)も秦からワイロを受け取っていたようで、この悼倡后も息子の幽繆王に讒言(ざんげん)して李牧を殺害させたとの記録もあります。

ちなみにこの幽繆王の母親である悼倡后は、夫であった悼襄王の兄と男女の関係にあったとも伝えられています。

少し話はそれましたが、幽繆王は前王の時代から活躍していた李牧を恐れていたとも伝えられていますが、郭開や悼倡后の讒言を聞き入れた幽繆王は李牧処刑に突き進んでいくことになります。

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またこの時には司馬尚も将軍の位を追われることになってしまいます。

 

 
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キングダムでの幽繆王の最後は?

史実での幽繆王のその後は?

さて李牧を処刑した幽繆王。

その後はどのような運命が待っていたでしょうか?

李牧を処刑して司馬尚を将軍の座から追い、代わりに将軍にしたのは趙蔥(ちょうそう)と斉の将軍・顔聚(がんしゅ)でした。

しかしこの2人は王翦の攻勢を防ぐことはできず、紀元前228年に王翦に敗北。

趙は秦軍に邯鄲(かんたん)まで占領されることになってしまいます。

その時、幽繆王は東陽に逃げたとも伝えられていますが、王翦と羌瘣によってこの地も攻められてしまい、幽繆王も捕らえられたと伝えられています。

ただ幽繆王が捕らえられた時期には諸説あり、斉の将軍・顔聚(がんしゅ)と共に捕虜になったとも、邯鄲が陥落した時に捕虜になったとも伝えられています。

時期はともかく捕らえられたことは事実のようで、その後幽繆王は房陵という地に追放されたと伝えられています。

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キングダムでの幽繆王の最後は?

ではキングダムでは幽繆王はどのような最後を迎えるでしょうか?

まずは史実と同じように、敗北して捕虜となって都から離れた辺境の地に流されてしまうことが予想されます。

また幽繆王はその死に方までは史実に記録は残っていないようです。

ですのでそれほど重要人物でもない幽繆王は、その最後までキングダムでは描かれないかもしれません。

原先生もお忙しい中で、そうした細かいことを考えるよりも、物語の大きな展開を考えることに力を注いでほしいところです。

もしも幽繆王の最後までが描かれるとしても、人間性に難がある問題児として描かれていますし、権勢を失ってからは周囲から人も離れてしまい、孤独な最期を迎えるのかもしれません。

または王位にあった時に人を人とも思わぬ扱いをしていたことで、多くの人から恨みを買っていたとも思われます。

そうなると恨みを買っていた誰かに殺害されてしまう、または毒殺されてしまうことも考えられます。

その最後は父・悼襄王(とうじょうおう)の時のように、悲劇的なものになるかもしれませんね。

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母の悼倡后の最後は?

ちなみに母の悼倡后(とうしょうこう)の最後はどうだったのでしょうか?

これは史実に記録が残っています。

秦によって邯鄲が陥落してしまい、幽繆王が捕らえられてからのこと。

悼倡后が嘉を陥れたことや、李牧を処刑させたことを恨んでいた趙の有力者たちが、悼倡后を殺害。

彼らは悼倡后の家まで滅ぼしてしまい、嘉を代という国で王に立てることになっていきます。

悼倡后も息子を王に出来た時には権勢をふるうことができたとは思いますが、趙の情勢も盤石ではない中で、李牧処刑まで持って行ったことが自らの命脈を短くした原因だったと言えると思います。

ただ悼襄王が悼倡后をめとろうとした時に李牧は反対していました。

このことを悼倡后が知ってしまったのかどうか?

それが悼倡后が李牧を処刑したくなった理由だったのかもしれませんね。

 

 
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まとめ

ここまで趙の幽繆王(ゆうぼくおう)の史実での姿を見ていくと共に、キングダムでの幽繆王の最後を考察しました。

幽繆王の最後については史実に記録はありませんが、キングダムの中では幽繆王はそれほど重要人物ではないかもしれず、死に方までは描かれないことも予想されます。

もしも最後まで描かれるとしても人間性に問題のあった幽繆王ですので、王という位を失ってしまえば誰も付き従うとは思えず、孤独な最期を迎えることも予想されます。

または王位にあって人を人とも思わぬ扱いをしていれば、多くの恨みを買っていたことも考えられますので、何らかの形で殺害されることも予想されます。

そして母親の悼倡后はキングダムでは江姫(こうひ)となっていますが、この江姫も物語に登場してきてドロドロした展開をもたらすことも考えられますし、史実でも人に恨まれて悲惨な最後を迎えることになっています。

それではここでキングダム幽繆王の史実と最後に関する考察を終わります。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

 
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