キングダム悼襄王(とうじょうおう)が史実でも暗君だったか徹底検証!

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キングダムの趙王に悼襄王(とうじょうおう)という王がいます。

この悼襄王はキングダムの中で李牧が「暗い」と評しているように、愚かな王として描かれています。

またこの悼襄王は史実に実在の人物ですが、史実でも同じように愚かな王だったのでしょうか?

こちらでは趙の悼襄王の史実の記録に着目して、悼襄王が史実でも愚かな王だったのかを検証していきます。

それでは最後までお楽しみください♪

 

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キングダム趙王の悼襄王(とうじょうおう)は史実でも暗君?

では、まず趙王の悼襄王(とうじょうおう)の史実の実像からご紹介していきます。

  • 紀元前245年:悼襄王が趙王に即位。将軍を廉頗→楽乗に変更。廉頗が魏に亡命。
  • 紀元前243年:匈奴との戦いに功績のあった李牧を将軍に登用。
  • 紀元前242年:学者だった龐煖(ほうけん)を将軍に起用。
  • 紀元前241年:龐煖を将軍にして、趙・楚・魏・燕の4軍で秦の蕞(さい)を攻めるも失敗。
  • 紀元前236年:龐煖を将軍として燕を攻撃。悼襄王の死亡。

これらのそれぞれを詳しく見ていくことにします。

 

紀元前245年

まず悼襄王が趙王に即位した年ですが、これは紀元前245年のことと言われています。

この紀元前244年は、キングダムで言えば王騎が李牧と龐煖(ほうけん)によって討たれた年のことになります。

この年に即位した趙の悼襄王は、魏を攻めていた将軍を廉頗(れんぱ)から楽乗(がくじょう)に交代させます。

このことを不満に思った廉頗は、怒って楽乗を攻撃。

そのまま廉頗は攻めていた魏に亡命することになります。

この時の悼襄王は王になって何か明らかな功績を挙げたいと考えたのかもしれませんが、廉頗という名将の尊厳を考えずに魏へ亡命させてしまったことは、この悼襄王の愚かな一面を表していたかもしれません。

ただ人間、過ちは犯すもの。

ここからの悼襄王は、新たな人材を登用する姿を見せていきます。

 

紀元前243年

その後、紀元前243年には悼襄王は北方の匈奴(きょうど)という異民族に対する守備を任されていた李牧を将軍として登用。

李牧に燕を攻撃させて武遂(ぶすい)と方城(ほうじょう)という二つの城を攻め落とすことに成功しています。(これは紀元前244年とする説もあるそうです。)

 

紀元前242年

また紀元前242年には学者であった龐煖(ほうけん)を将軍に起用。

龐煖を侮っていた燕軍を討って、燕の将軍・劇辛(げきしん)を討ち取っています。

このように史実をひも解くと、悼襄王は人材の登用を積極的に行っていた様子も垣間見ることができます。

 

紀元前241年

また紀元前241年には龐煖を将軍として、趙・楚・魏・燕の4か国の軍勢で秦の蕞(さい)を攻めましたが「不抜(抜けなかった)」となっています。

キングダムでは蕞に秦王・政が現れて、蕞の民衆を鼓舞した姿が印象的でしたが、この点は史実では記録が残されてはいません。

 

紀元前236年

その後は紀元前236年には龐煖を将軍として燕を攻撃。

龐煖は燕の複数の城を落とすことに成功しますが、この年に秦の鄴攻めを受けてしまいます。

そしてこの年に趙の悼襄王は死亡することになっています。

ちなみに悼襄王の史実での死亡理由は明らかになっていません。

 

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史実の趙王・悼襄王は太子を嘉から遷に変更した

また趙王の悼襄王は、史実でも太子(世継ぎ)を嘉から遷に変更しています。

太子を変えるにはそれなりの理由があったはずです。

その理由は何だったのでしょうか?

 

悼襄王は遷の母親を寵愛していた?

さて趙王の悼襄王が太子を嘉から遷に変えた理由は何だったのでしょうか?

悼襄王は遷の母親である悼倡后(とうしょうこう)を寵愛(ちょうあい:特別にかわいがること)していたため、その子供の遷に後を継がせたかったとも言われています。

また悼倡后は太子であった嘉とその母親の后の讒言(ざんげん:ニセの悪口)を伝えて、さらに人を使って嘉を罪に陥れたとも言われています。

そこで悼襄王は太子を嘉から遷に変更し、悼倡后を正式な王の后としたと伝えられています。

ただ遷は素行が悪かったと言われていましたし、遷は幽繆王となってもニセの悪口を信じたため、幽繆王は李牧を殺害し、郭開という奸臣を重く用いたと言われています。

素行が悪かった遷を次の王位にしたという悼襄王の決断は、趙の行く末を考えた時には非常に愚かな決断だったと言えます。

 

悼襄王の史実の姿をまとめると

全体的に見ると悼襄王の時代には趙は燕には強かったものの、秦に対しては攻撃は成功せず、秦の侵攻を止めることはできませんでした。

長平での戦いで40万人以上を失ってから、趙が傾いていく流れを止められなかった王と言えるかもしれません。

また人材の登用でいえば、廉頗を魏に亡命させてしまったものの、匈奴との戦いで功績のあった李牧や学者だった龐煖を将軍に任命するなど、人材登用は積極的に行っていたと言えます。

ただ太子を嘉から素行に問題のあった遷に変えたことは非常に愚かな決断で、これがその後の趙の滅亡を決定づけたと言えます。

 

悼襄王は史実でも春平君を寵愛していた?!

またキングダムの中では、悼襄王の周辺には男の子が奉仕している場面が描かれています。

歴史をひも解けばこうした男色は決して珍しいことでもありませんが、史実でも悼襄王には同じような男色は確かにあったようです。

キングダムの中でも春平君(しゅんぺいくん)という美少年を、悼襄王が寵愛(ちょうあい:特別に可愛がる)していたことが描かれていました。(単行本17巻 第175話「李牧、咸陽へ」)

キングダムの中ではこの春平君が拉致(らち)されて、その交換条件として宰相である李牧(さいしょう:日本で言えば総理)に迎えに来させるように呂不韋が仕向けていました。

史実ではここは少し違って、春平侯(しゅんぺいこう)という悼襄王の兄がいて、確かにこの春平侯は秦に行きましたが、この春平侯は秦で拉致されておらず趙に返されています。

ただこの悼襄王の兄の春平侯が、悼襄王の寵愛を受けていたことは史実でも記録に残されています。

ですので史実でも悼襄王の男色があったことは確かのようです。

 

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趙王・悼襄王は史実でも暗君だった? まとめ

ここまでキングダムの趙王・悼襄王(とうじょうおう)が史実でも暗君だったのか?という点を考察・検証してきました。

史実に実在した趙王の悼襄王は、廉頗を亡命させてしまい優秀な将を失ったという過ちを犯してはいます。

ただ李牧や学者だった龐煖を将軍に登用して、成果を上げた事実もありました。

とはいえ太子を嘉から遷に変えた点は、その後の趙の運命を知っている私たちにとっては愚かな決断に見えます。

また実際に遷は素行が悪かったという評判でしたので、遷を趙王にするという決断が間違った決断だったことは疑いがありません。

頭ではそれが分かっていても、人の情(悼襄王が遷の母親を可愛がっていた、偽の悪口を信じてしまった)が判断を曇らせてしまうことがある、という教訓を私たちは得るべきなのかもしれません。

また安易にニセの悪口を信じないようにするべき、という教訓も学ぶべきかもしれませんね。

それではこれで、キングダムの趙王・悼襄王の史実での姿や史実でも暗君だったのか?という点の考察を終わります。

最後まで読んでいただいて、ありがとうございました!

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