キングダム蒙恬(もうてん)の史実に実在!その最後の死に方は

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キングダムは古代中華を舞台にした人気マンガで、秦の始皇帝の将軍・李信が主人公の物語です。

このキングダムには多くの武将が登場してきますが、主人公の李信と同世代の武将に蒙恬(もうてん)という人物がいます。

この蒙恬はキングダムの中では少しチャラい性格に描かれていますが、やる時はやる気概も持っています。

ちなみに蒙恬は、主人公の李信と同様に史実に実在している武将ですが、それではこの蒙恬という武将は史実ではどのような活躍を見せているでしょうか?

また蒙恬は史実では悲劇的な最後を迎えていますが、それはどのような最後なのでしょうか?

ここでは蒙恬という武将の実在した記録をひも解きながら、この蒙恬の歴史上の活躍を見ていき、そしてその悲劇的な最後についても紹介していきたいと思います。

それでは最後までお楽しみください!

 

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キングダム蒙恬(もうてん)とは誰?

蒙恬は家柄がすごい!

それではキングダムの蒙恬を軽く紹介していきますが、主人公の信より年齢が1歳上の武将です。

ただ主人公の信(今は李信となっていますが)は戦争孤児であり、元下僕という身分でしたが、この蒙恬は生まれ育ちが信とは全く違います。

将軍家。

それが蒙恬の家柄ですが、キングダムの中では結果的に父親が偉大なために、蒙恬はそこから逃げるように不真面目な性格をしていると描かれています。

 

蒙恬の性格は?

すこしチャラいかな?

蒙恬はそう思える性格をしていますが、必要以上に家柄を意識するわけでなく、ゆえに信に対しても家柄が低いからと雑な扱いをするわけでなく、誰に対しても公平な接し方をしているようには感じますね。

その意味では蒙恬は「いいやつ」と言えると思います。

また戦いにあたっては、当初は蒙恬率いる楽華隊(がくかたい)は美味しいとこ取りが十八番という印象でしたが、自ら血を流す役割を背負って将を討つことは信たちに任せる場面も見られます。

そして王賁と信は仲が良くありませんが、蒙恬はこの2人ともうまく関係を保っていて、この3軍をまとめて輪虎を討ったこともあります。

また朱海平原の時には、将を失った麻鉱軍をスンナリとまとめ上げて指揮することにも成功。

人当たりが良く、人をまとめる人間力を備えていることも分かります。

軽さはあるものの「いいやつ」で人当たりが良く、軍を率いるにあたっては統率力が抜群で、やる時はやる男。

それがキングダムの中での蒙恬の性格と言えるように思います。

 

蒙恬の祖父は?

また蒙恬は将軍家の家柄ですが、その祖父は蒙驁(もうごう)という将軍です。

祖父と父親、弟については、キングダムと史実は同じ人物ですね。

この祖父の蒙驁は、東の斉という国から秦に移ってきた人物で、凡庸(ぼんよう)な将軍としてキングダムに描かれていますが、史実での武功はなかなかのものがあります。

  • 紀元前249年:将軍として韓を討伐。成皋(せいこう)と滎陽(けいよう)を奪取。
  • 紀元前248年:趙を攻撃して城邑(じょうゆう:城壁に囲まれた町)を37奪う。
  • 紀元前247年:魏の信陵君が五か国連合軍を率いて秦に進軍。王齕(おうこつ)と迎え撃ったものの敗れる。
  • 紀元前244年:韓を攻撃して城邑13を奪う。
  • 紀元前242年:魏を攻撃して城邑20を奪い、東郡を置いた。

 

キングダムでは凡庸と描かれている蒙驁ですが、敗戦の記録はあるものの、その史実での武功はなかなか優れたものがあります。

 

蒙恬の父親は?

また蒙恬の父親は蒙武(もうぶ)という将軍で、キングダムの中では突出した武の持ち主として描かれています。

極端に単純明快な性格として描かれていますが、この蒙武の史実での活躍は以下の通りです。

  • 紀元前224年:楚の項燕が秦に侵攻してきたので、蒙武は王翦の副将としてこれを破り、項燕を討ち取った。
  • 紀元前223年:蒙武は王翦の副将として楚を攻め、楚王を捕虜にした。

 

楚の項燕は自殺したとも言われていて、諸説あるようです。

それはともかく父親の蒙武も楚の平定には功績があり、キングダムでは自分が最強であることを証明することのみに興味がある武将として描かれています。

 

蒙恬の兄弟は?

また蒙恬の兄弟としては、史実でも弟がいます。

蒙毅(もうき)という名前ですが、キングダムの中では現時点では軍師として昌平君の学校で学んでいる段階で、まだ戦場で軍師として指揮を取った経験はありません。

史実でも戦場での活躍は見られず、ただ始皇帝からの信任が厚かったようで、始皇帝の側近として外出時にも宮中でも側に同席させていたと伝えられています。

始皇帝からの信任が厚かった蒙恬、蒙毅の兄弟でしたので、始皇帝が健在であった時期には蒙氏一族とことを構えようとするものは大臣や将軍でもいなかったとも伝えられています。

 

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キングダム蒙恬(もうてん)の史実での活躍は?

斉を滅ぼすのに貢献

では蒙恬の史実での活躍を見ていくことにしますが、まず蒙恬は若い頃は司法関係の書記を務めたと言われています。

キングダムの中でも蒙恬は、本当は文官がいいと言っている場面がありました。

ただその後の蒙恬は、紀元前225年に李信の副将として楚を共に攻撃。

当初は勝利していたものの、項燕(こうえん)という武将に敗れるという結果となっています。

 

何か出だしは良くないですが、それでものちに家柄によって将軍になったと伝えられています。

それが始皇26年、これは紀元前221年のことですが、この時には蒙恬は李信や王賁と共に斉を攻めて、斉を滅ぼすことに成功しています。

そして秦が中華を統一してからは、北方の匈奴(きょうど)という異民族を相手に奮戦。

この匈奴を北に追いやりオルドス地方を勢力圏に入れることに成功していて、蒙恬の威勢は匈奴を震え上がらせていたと伝えられています。

キングダムでもなかなかの活躍を見せていますが、史実でも優秀な武将であったようです。

また蒙恬はこうした武功の他に、歴史にその名を刻んでいる功績があります。

 

蒙恬、万里の長城を建設す

蒙恬の活躍として武功以外に有名なことは、かの有名な万里の長城の建設です。

北方の異民族である匈奴を北に追いやってからオルドス地方を領土にしてから、蒙恬は万里の長城の建造に取り掛かったと言われています。

ただこの万里の長城は、全て最初から建築されたものではなく、戦国時代に北部の異民族の侵攻に備えるために秦・趙・燕ですでに長城が造られていました。

それらをつなげる工事を行ったのが秦の始皇帝であり、実際の万里の長城の構築には蒙恬が携わったと言われています。

 

毛筆を開発?

また蒙恬は毛筆を作った人物としても歴史にその名を刻んでいます。

たださらに古い時代の遺跡から筆が出てきたことで、この説は覆されたと言われています。

そして蒙恬は筆を発明した人物というわけではなく、筆を改良した人物とみなされています。

 

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蒙恬(もうてん)の最後の死に方は?

蒙恬、権力争いに巻き込まれる!

では蒙恬は史実ではどのような死に方を迎えているのでしょうか?

ここで蒙恬は権力争いに巻き込まれ、そして敗れていくことになりますが、その経緯を見ていくことにしましょう。

ことは始皇帝が死亡するところから始まりますが、その時に趙高(ちょうこう)という人物が自らの権勢を高めるべく、ライバルを追い落とそうとするところから始まります。

まず始皇帝には複数の子供がいて、周りからの評判が良かったのは扶蘇(ふそ)という長男。

この扶蘇は始皇帝の行為を諫(いさ)めた(過ちを指摘した)ことで、蒙恬の監視役として北方に追いやられていました。

ただ始皇帝もこの長男の扶蘇に対しては自らの葬儀を取り仕切るようにと、扶蘇を後継ぎにするべく手紙を書いていましたが、これを趙高は手元に置いたまま長男の扶蘇には渡さないままにしました。

一方の趙高は、始皇帝の末っ子の胡亥(こがい)を二世皇帝にしようと企みます。

ここには趙高自身が胡亥に訴訟や裁判を教えたことがあり、また趙高が胡亥から寵愛を受けていたことも背景にありました。

胡亥とこの時期に丞相となっていた李斯(りし)にも声を掛けて、胡亥を二世皇帝にすることの了解を得ます。

そして趙高たちは始皇帝の遺志として、胡亥を後継ぎにすることを発表してしまいます。

その上で趙高たちは始皇帝の長男の扶蘇(ふそ)を亡き者にしようと、自殺を迫る始皇帝の手紙を偽造。

蒙恬はその手紙を怪しんで、扶蘇に対してすぐに自殺をするのではなく陛下に許しを得るように説得しますが、扶蘇はやさしい性格でもあり、父が子に死を命じたことを重んじてそのまま自殺したと伝えられています。

始皇帝の本当の遺志は扶蘇を後継ぎにするものでしたが、その始皇帝の遺志がそのまま実現していれば秦の行く末はどうなったか?

歴史に「もしも」はありませんが、そんなことを考えたくなる結末です。

 

弟、蒙毅は趙高に恨まれていた?

ちなみに弟の蒙毅(もうき)は趙高の恨みを買っていたそうです。

趙高が重い罪に問われた時のこと。

この時、始皇帝は蒙毅に対して趙高を法に照らして裁くように指示。

そして蒙毅は法律を厳正に適用して、趙高は死罪が相当だとして判定して、趙高の官位をはく奪します。

ただ始皇帝は仕事熱心な趙高に免じて罪を許したことがありました。

このことを趙高は恨んでおり、折あれば蒙毅を亡き者にしようと考えていたと言われています。

そして扶蘇が自殺した後で、胡亥は蒙恬を許す気になったものの、蒙氏一族が重用されると自らの立場が危うくなると趙高は焦ります。

そのため趙高は胡亥に対して、忠義を装ってこう言います。

「先帝(しこうてい)はかねてより、賢子たるあなたを太子(世継ぎ)に立てようとのお考えであったのに、蒙毅の反対で沙汰(さた)やみ(中止)になったのだと聞きます。

もし賢子と知りながらいつまでも太子に立てなかったとなりますと、まことに不忠、かつ主君を惑わすものと申せましょう。

この際、誅殺(ちゅうさつ:その罪を理由に殺害すること)なさるにしくはないと愚考いたします。」

これを胡亥は聞き入れて、蒙毅を牢獄につなげてしまいます。

そして胡亥が二世皇帝になり、趙高は側近になると常に蒙氏一族を中傷し続け、ついに罪状をでっちあげて責任を問いただすに至り、蒙毅に自殺を迫る命令を下します。

蒙毅も読み上げられた罪状(胡亥を太子に立てなかったこと)には思い当たる節がないようで、この命令を簡単には受け入れず使者に対して弁舌豊かに反論をしたものの、胡亥の意図を知っていた使者はその場で蒙毅を殺害したと言われています。

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蒙恬、毒を飲んで自殺する

蒙毅亡き後、二世皇帝・胡亥はさらに蒙恬に使者を送り、蒙恬に多くの過失があること、そして弟の蒙毅が大罪を犯したために連座(れんざ:罪人の罪が家族に及ぶこと)を免れないと責任を問いただします。

これに対しても弟の蒙毅と同様に、蒙恬も使者に弁明を尽くしますが、使者は蒙恬の言葉を皇帝に取り次ぐ気はないと冷たい対応を取ります。

これに対して蒙恬は深いため息をつき、過ちもないのに死なねばならなくなった境地を嘆きます。

ただ長城を一万里あまりも連ねたことで大地の命脈を断たずにはすまなかったこと。

これが自らの罪であると言って、蒙恬は毒を飲んで自殺したと言われています。

 

司馬遷の評価は?

ただ万里の長城を作ったことに関して、史記の作者である司馬遷(しばせん)は、実際に万里の長城をその目で確かめた上で以下のように酷評しています。

「それはまことに人民の労苦をかえりみぬものであった。

秦が諸侯を滅ぼした当初は、天下の人心が安定せず、負傷者の傷も癒えていなかったのだ。

蒙恬は名将として、強諫してでも人民の危急を救い、老人と孤児に保護の手をさしのべ、庶民が安心して暮らせるようにつとめるべきであったのに、始皇帝の意におもねって、自分の功績を上げるためにこの事業をおこしたのである。

蒙氏兄弟が誅殺(ちゅうさつ:その罪を理由に殺害すること)されたのも、もっともなことではないか。

それを大地の命脈を断ったためとすることはできない。」

何とも厳しい司馬遷の評価ですが、功績のある蒙氏一族などを葬った悪臣・趙高の企ては、最後に趙高自身に刃が向けられると共に、秦の滅亡という結果にうながっていくことになります。

 

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キングダム蒙恬(もうてん)の史実と最後 まとめ

ここまで歴史に実在した蒙恬(もうてん)の史実の姿と、その最後について見てきましたがいかがでしたでしょうか?

蒙恬はキングダムの中では少し軽い印象はあるものの、要所ではやる時にはやる姿を見せる勇将として描かれています。

ただ実在した史実での蒙恬は、中華を統一するにあたっての武功はそれほど多くはなく、将軍になったのも始皇帝によって中華が統一された年と遅い時期になっています。

キングダムではすでに蒙恬は将軍になっていますので、この辺りはキングダムと史実とは異なっていますが、龐煖の姿などキングダムでは史実と異なる面があることは周知の事実でもあります。

また蒙恬の最後は功績があったのに権力争いに巻き込まれ、自らの権勢がそがれることを恐れた趙高のワナにはまってしまい、罪がないままに毒を飲んで自殺に追い込まれたという最後の死に方だったと言われています。

弟の蒙毅も同じような運命をたどりましたので、蒙恬兄弟の最期は悲劇的な死に方だったと言えます。

ただ蒙恬たちを追い込んだ趙高も最後は殺害されることになりますし、秦もすぐに滅びてしまったことは少し胸のすく思いがします。

また歴史をひも解くとこうした事例(功績のある人物を追いやる事例)では、そうしたことを実践した方が損をする結末になっていることが多いように思います。

やはり最後は人間というものは邪悪なことを実行に移さず、「人の道」というものに従って生きた方が良いのかもしれませんね。

それではここまで、実在したキングダムの蒙恬の史実の姿とその最後の紹介を終わります。

最後まで読んでいただいて、ありがとうございました!!

(参考文献:徳間書店 史記Ⅲ 「独裁の虚実」)

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