キングダムは古代中華を舞台にした大人気の戦闘漫画です。
このキングダムの主人公は李信という将軍ですが、この主人公の李信が仕えているのは、のちの始皇帝となる秦王・政です。
この秦王・政は、キングダムでは光あふれる優れた王として描かれていますが、史実の政はどのような王だったのでしょうか?
また秦の始皇帝は悪い評判もありますが、キングダムの政は闇落ちすることがあるのでしょうか?
こちらでは秦の始皇帝こと秦王・政の史実の実像や性格に迫りながら、キングダムで政が闇落ちするのか?を考察していきます。
それでは最後までお楽しみください!
Contents
キングダム政の史実の実像とは?史実の政の性格はヤバかった?
めちゃくちゃ最高でした。
特に”人の持つ本質は光だ”という政の言葉が1番好きだった。#キングダム pic.twitter.com/WoOJTSkgt4— phon24 (@sei_shin24) July 24, 2021
さてキングダム政の史実の実像に迫っていきますが、まずは政の性格から見ていくことにしましょう。
キングダムでは光ある優れた王として描かれている政ですが、史実の政の性格には疑問が投げかけられています。
その政の性格について、当時の人物の始皇帝への評価から始皇帝の内面に迫ってみましょう。
尉繚(うつりょう)の始皇帝に対する評価は?
まず尉繚(うつりょう)という人物の始皇帝の評価ですが、この尉繚という人物はキングダムでは出てきていませんが、魏の人物で始皇帝に策略を提案した人物として知られています。
またこの尉繚は、「尉繚子」という兵法書を残していると言われています。
そんな尉繚ですが、始皇帝のことをこう評しています。
秦王は鷲鼻(わしばな)で目が細く、胸は鷹のようにつき出て、声音は狼そっくりだ。
どう見ても人間らしい心の持ち主ではない。
困窮した時はあまんじて人の風下に立つが、いったん羽振りがよくなれば人を人とも思わない男だ。
いまでこそ素浪人(すろうにん)の私にもへりくだった態度を見せてはいるが、やがて天下をとれば思いのままに取り仕切ろうとするだろう。
いつまでもつきあえる相手ではない
結構言いますよね!尉繚さん!
始皇帝ともなると、陰口がここまで残るものなんですね。
ただこの尉繚の始皇帝評は、始皇帝は困っている時はいいヤツですが、羽振りが良くなると途端に嫌味なヤツになるタイプと言えます。
王翦の始皇帝に対する評価は?
また名将・王翦も始皇帝の人間性に不信を抱いていた人物で、始皇帝のことをこう評しています。
これは王翦が60万の兵を預けられて楚を攻略する時点のことでしたが、この時に王翦は始皇帝に対して恩賞の土地をもらえるように、何度も始皇帝に懇願しているんですね。
あまりに始皇帝に土地を懇願する王翦に、部下が忠告したそうですが(キングダムでは亜光将軍が忠告するのか?)、それに対して王翦はこう答えたと言われています。
わからぬか。
王は冷酷で、ひとを信頼できない方だ。
わしに秦の全軍をゆだねたいま、心安らかであるはずがない。
こうして財産のことばかり気にかけるように見せかけなければ、逆心はないかと疑われてしまうだろう
ここに王翦の世渡りの上手さが垣間見えますが、王翦の始皇帝への評価も人を信頼できないとされています。
中華統一後の始皇帝は性格に難を抱えた?
さて中華統一までは、始皇帝の性格がそれほどおかしいと思える記述はないのかもしれません。
ただ中華統一してからの始皇帝は、人の意見に耳を貸さなくなったと言われています。
あとでご紹介する坑儒(こうじゅ)の際に、始皇帝の長男の扶蘇(ふそ)が始皇帝の行いを正そうと父・始皇帝を諫(いさ)めましたが、怒った始皇帝は扶蘇を地方に追いやったと言われています。
このことは始皇帝の後継者争いに暗い影を落とすことになる(扶蘇は自殺する)のですが、中華を統一した後の始皇帝は、次のように評価されるようになっています。
- 自分以上の人間はいないとのぼせ上がっている
- 政治は刑罰の一点張り
- 人を処刑して威厳を高めたがっている
- 過ちを諫(いさ)めるものがいないから、驕(おご)りたかぶる一方
さてどうでしょうか?
この始皇帝に対する評価は漢の時代に書かれた「史記」を参考にしていますが、滅びた秦だからこそ書ける内容であって、これが漢の皇帝ならばここまで書くことはできなかったでしょう。
つまり始皇帝に対しては厳しめに評価が書かれている可能性もありますし、漢の正当性を主張するために秦がひどい国だったとアピールしたかったようにも思えます。
またこの評価をしたのは、神仙の術をとなえていた方士(瞑想などで不老長寿を成し遂げようとした人)たちで、この方士たちは始皇帝に対して不老長寿の結果も出せないまま身を隠しているんですね。
その方士もどうなんだ?
方士たちは自分の非を責められたくないために始皇帝を攻撃しているだけじゃないのか?と思う部分もあります。
また人間ならのぼせ上がることはあることだと思いますが、自分を注意してくれる人を遠ざけた点は自らの立ち位置を危うくさせたかもしれないとは思います。
とはいえ始皇帝が本当に人としてダメな人物だったら、優れた将から見切りを付けられた可能性もありますし、中華統一という偉業は達成できなかった可能性が高いようにも思います。
始皇帝に対する評価と始皇帝の実績、そして書物の作成時期や書物の持つ特性を総合的に考えてみると、始皇帝がヒドい人物だったというよりも、天下を取って権力を握ったら誰でも人は変わってしまうのではないか?
それが歴史から学ぶ私たちの教訓のように思えます。
ちなみにこれはあくまで私の意見にすぎませんので、ご了承ください。
キングダム政の史実とは?秦王になるまでは意外とスムーズ?
#ドデカミン#キングダム#嬴政
アニメシリーズの蕞の戦い
楽しみだなぁ。
政が剣をとるときって
グッとくるよね… pic.twitter.com/G0TRuKEvn1— 飯田亜沙美@京都⛩️あなたの話を聴くコーチ (@MnbAsm) July 29, 2021
また政に関する史実の記録を年表にすると、以下のようになっています。
西暦 | 出来事 |
紀元前259年 | 趙の都・邯鄲(かんたん)で誕生 |
紀元前246年 | 秦王に即位 |
紀元前237年 | 呂不韋の相国の職を解く |
紀元前227年 | 燕の太子・丹による荊軻(けいか)暗殺事件が発生 |
紀元前221年 | 秦が中華統一に成功する。政は始皇帝と名乗り始める。 |
紀元前213年 | 禁書令を出す(焚書:ふんしょ) |
紀元前212年 | 儒学者460人余りを穴埋めにする(坑儒:こうじゅ) |
紀元前210年 | 始皇帝死去 |
ちなみに蕞(さい)という城での攻防戦で、政が戦ったという記録は史実にはありません。
(蕞での政の檄は、キングダムで1,2を争うほどの名シーンですけどね。)
ではまずは政の史実での幼少期から見ていきますが、キングダムと同じように史実でも悲惨だったのでしょうか?
政の史実での誕生と幼少期は悲惨だった?
まず政の生まれについてですが、政は趙の邯鄲(かんたん)で生まれています。
というのも政の父親とされる荘襄王(そうじょうおう)は、正当な王位継承者ではなかったようで、この荘襄王はかつて趙の人質となっていました。
この荘襄王が呂不韋の妾(めかけ:正妻ではない妻)に一目惚れして、呂不韋にこの女を譲って欲しいと頼み込んだそうです。
呂不韋も当初はムッとしたものの、この荘襄王に呂不韋は大金をかけていた(荘襄王が王族だと知って、この荘襄王を秦王にするために呂不韋は大金を使っていた)ので、この女を荘襄王に譲ることにしました。
そして荘襄王とこの女の間に生まれたのが、のちの始皇帝となる政でした。
秦は趙を攻撃していた
ただ当時の秦王・昭王は、人質として荘襄王がいるにも関わらず、たびたび趙を攻撃したと言われています。
荘襄王は父親の孝文王の20人以上いたと言われる男子の一人だったので、昭王としてはあまり気に留めていなかったのかもしれません。
ただこの昭王の趙への攻撃のため、荘襄王は趙で冷たい扱いを受けたと言われています。
この時に政も冷たい扱いを受けたのか?
この点は定かではありませんが、冷たい仕打ちを受けていた父・荘襄王や母から、政自身も冷たい扱いを受けていた可能性はあったのかもしれません。
身を隠すことになった政
ただ政の周辺は、そこから急に慌ただしい展開を見せることになっていきます。
紀元前257年に、秦の昭王は将軍王齮(おうき:王騎将軍のモデルと思われます。)を出撃させて、趙の都・邯鄲を包囲しました。
邯鄲に落城の危機が迫ったため、趙は人質だった荘襄王を殺そうとしました。
そこで荘襄王は呂不韋と対策を講じて、大金を監視の役人に贈った上で脱出に成功。
そして荘襄王は、秦の陣営に逃げ込むことに成功しますが、政とその母親は趙に取り残されたままとなりました。
そこで趙は荘襄王の妻子を殺そうとしましたが、政の母親は趙で権勢のある家柄だったため、家の力によって政と母親は身を隠すことができたと言われています。
キングダムでは政の母・太后が趙で苦労したことになっていましたが、史実での太后はそこまで苦労はしていなかったと思われます。
それでも秦王とつながりがあることで、政は母子ともに肩身の狭い思いをしていたのかもしれませんね。
政はスムーズに秦に戻った?
また政は史実ではキングダムに比べると、かなりスムーズに秦に戻ることになっています。
秦では昭王が亡くなり、その子の孝文王が即位すると、荘襄王が太子(王の後継ぎ)となりました。
このタイミングで趙は秦と事を荒立てたくないと考えたのでしょう。
趙は政とその母親を秦に丁重に送り返したと言われています。
キングダムでは紫夏(しか)という商人が命がけで政を秦に送り届けたことになっていますが、史実ではそのような事実はなさそうです。
秦王への即位もスムーズだった?
また政の秦王への即位もスムーズだったようです。
昭王が亡くなってから孝文王が即位しましたが、この孝文王は1年で崩御(ほうぎょ:死去)。
次に政の父とされる荘襄王が即位しましたが、この荘襄王も3年で崩御。
そこで太子となっていた政が秦王に即位したことになっています。
キングダムでは弟の成蟜(せいきょう)との争いを勝ち抜いた結果、政は王位を継ぐことになりましたが、そうした事実は史実では無かったようですね。
意外とスムーズに即位にこぎつけた政でしたが、ここから難しい展開はあったのでしょうか?
キングダム政の中華統一も意外とスムーズ?
キングダムの政の名ゼリフの「人の本質は光だ」だけどこれって詰まる所性善説であって政が敬慕した韓非の師である荀子の性悪説=法家思想とは相反する理念なのが興味深いな…… pic.twitter.com/BeGxWo9tba
— 春間玄堂(保健衛生大臣) (@hrmgdn) May 28, 2021
さて秦王となった政ですが、中華統一までも意外とスムーズに実行できています。
そもそも政が秦王になった時点で、秦とそれ以外の国では国力に大きな差があったことが知られています。
趙将・廉頗(れんぱ)の親友として知られる藺相如(りんしょうじょ)も、史実で「秦は強国、趙は弱国」と発言する場面もありました。
これまで秦では改革も行われてきましたし、秦は戦いによって領土を広げていました。
ですので史実の秦王・政の時代は、秦の中華統一は時間の問題だったと思われます。
ただ途中で呂不韋と政の母・太后の密通や、呂不韋が太后にあてがった嫪毐(ろうあい)という人物の反乱は史実には記録が残されています。
これはキングダムでも描写がありましたが、嫪毐の反乱は史実でも失敗に終わっていますし、呂不韋もこのことをキッカケに失脚して、ついに自殺に追い込まれることになっています。
呂不韋の失脚で武力での中華統一に拍車がかかった?
ちなみに呂不韋の失脚+自殺によって、政の武力による中華統一に拍車がかかったとも言われています。
まず呂不韋は、政が厳格に原則を徹底させる性格に不安を抱いていたと言われています。
諸学派の書物の良いところを取り上げて、一つに取りまとめた「呂氏春秋」を作ったのも、世の中の多様性を政に教える意図があったと言われています。
また天下統一の方法にしても、呂不韋は伝統的な「存亡継絶」政策を取っていたと言われています。
この存亡継絶というのは、各地の王族を滅ぼし尽くすのではなく、亡国の君主の子孫に領地を与えて、祭祀(神々や祖先を祭ること)を絶やさないようにする政策です。
しかし呂不韋の失脚と自殺により、その重しが取れることになりました。
ここから政の武力による中華統一に拍車がかかったと言われています。
政の中華統一は順調だった?
では政の中華統一の歩みを見ていきましょう。
西暦 | 出来事 |
紀元前237年 | 呂不韋が相国の職を解かれる |
紀元前230年 | 秦は韓を滅ぼす |
紀元前228年 | 秦は趙を滅ぼす |
紀元前225年 | 秦は魏を滅ぼす |
紀元前223年 | 秦は楚を滅ぼす |
紀元前222年 | 秦は燕と代(趙の残党)を滅ぼす |
紀元前221年 | 秦は斉を滅ぼして、中華統一を成し遂げる |
この中華統一への道のりでは、難しい戦いはあるにはありました。
秦が趙を攻撃した時は、李牧と司馬尚によって上手く守りを固められました。
また楚を攻略する段階では、キングダムでは主人公となっている李信が大敗を喫してしまったことはあります。
しかし秦の中華統一に向けて大きな壁となったのはこの2つの戦いぐらいで、秦の攻略を他の国は防ぐことはできませんでした。
この当時は秦とそれ以外の国で、それだけ国力に差があったということがこの戦績からも分かります。
中華を統一してからの政の史実での実績がヤバい?
焚書
特定の思想や学問の排斥や特定の分野の本を排除を目的に、組織的に書物を焼く行為よ。秦の始皇帝やナチス・ドイツが行ったものが有名で、日本国内の例なら悪書追放運動があるかしら。いずれにせよ私は狂気の沙汰だと思ってるけどね、これ。pic.twitter.com/opkLOy9vvk— 教科書では教えない事をつぶやく村雨bot (@Text_Murasame) July 30, 2021
また中華を統一してからの政は、自らを始皇帝と名乗るようになり、有名な焚書坑儒(ふんしょ こうじゅ)を行っています。
その焚書坑儒とは何なのでしょうか?
始皇帝の行った焚書とは何か?
まず政こと始皇帝の行った焚書(ふんしょ)ですが、この焚書の目的は始皇帝の行う政治に異論を唱える人たちを根絶やしにすることでした。
そのために以下のことを行ったと言われています。
- 史官の記録のうち、秦以外のものは全て焼却する
- 民間に所蔵を許すのは医薬・占い・農事に関する書物のみとする
- それ以外の民間の書物は、全て地方官に提出させ、全てを焼き捨てる
- 詩(詩経)・書(書経)(※)を論じ合うものがあれば、さらし首にする
- 上古を理想として現代を非難する者は、一族みな殺しとする
- 役人でこれを知りながら見逃した者も同罪とする
- この焚書が公布されて30日を過ぎても書物を焼き捨てない者は、入れ墨した上で重労働に処す
- 学問を志す者には、役人が教師を務める(民間の独自解釈による教育を禁じる)
(※ 詩経と書経は、儒教の経典として大きな権威を持っていました。)
ちなみにこの焚書は、始皇帝自らの案ではなく、李斯の献策によるものだったと伝えられています。
李斯はこの時丞相となっていましたが、自らの政治を批判されることも好ましく思っていなかったのかもしれません。
ただこの焚書を行ったことで、始皇帝の過ちを直接指摘する臣下も途絶えてしまいます。
このことが始皇帝の精神面に悪影響を及ぼした(自らの過ちに気付かず尊大になっていった)ことは想像にかたくないと思われます。
始皇帝の行った坑儒とは何か?
また始皇帝は焚書と並んで悪名高い坑儒(こうじゅ)を行っています。
この坑儒というのは儒学者を生き埋めにしたというもので、ただここに至る経過としては方士(瞑想などで不老長寿を成し遂げようとした人)たちの存在も大きく関わっていたんですね。
この方士たちは不老長寿を願う始皇帝の願望につけこんで私服を肥やそうとしていました。
そして始皇帝は盧生(ろせい)や侯生(こうせい)といった方士たちに巨額の資金を与えたそうで、盧生は始皇帝に対して不老長寿の薬や神仙となる霊草などを探して見つけてくると言っていました。
しかし不老長寿の薬など見つかるはずもなく、盧生と侯生は始皇帝の批判を繰り返して、結果的に2人は身を隠してしまいました。
そのことに対して始皇帝は烈火のごとく怒り、始皇帝は都に呼び寄せた学者たちに対しても疑いの眼差しを向けることになります。
そして始皇帝は検察官に命令して、学者を一人残らず問いただしましたが、学者たちは互いに罪をなりつけ合い、言い逃れしようとします。
結果的に始皇帝は学者460人余りを法に違反したという罪で生き埋めにして、全国に布告して見せしめにしました。
またその後も摘発を一層厳しくしていき、禁令を犯した者を捕まえては辺境に流したと言われています。
この坑儒は確かにやりすぎの面はあったとは思います。
しかし経過を見ると、方士といった疑わしい人たちの行いも非常にひどいものがあります。
自ら不老長寿の薬を見つけると言いながら、見つけられないとなると言い訳がましく始皇帝の批判に明け暮れて、責任も取らずに逃亡する。
これでは始皇帝が怒るのも無理はありませんし、方士のひどさを考えると始皇帝の肩を持ちたくなってしまいますが、いかがでしょうか?
キングダム政は闇落ちする?
万極の回想で大将軍の一人白起の姿が
万極の異常な恨みに動けなくなる信
信の背中を押したのが中華統一で争いを無くすことを目指す政の存在ってのが良い
信自身も非道な事はしないと万極に宣言する所で更に心掴まれるわ#キングダム pic.twitter.com/VjIZjKL11Y— 銀 (@ginpoko123) May 17, 2021
ではここまで秦王・政こと始皇帝の史実を見てきましたが、始皇帝は自らの過ちを指摘する人を遠ざけたことで裸の王様になってしまったと思われます。
つまり自らの力を過信してしまい、尊大に構えることが多くなって人の意見に耳を貸さず、過ちを過ちと気づかないために、国を悪い方向に向かわせてしまった。
始皇帝にはこうして点があったと思われます。
ではキングダムの政は、中華を統一してこのような暗君に闇落ちするのでしょうか?
この点については、キングダムがどこまで描かれるのか?
ここが重要になってきますが、おそらくキングダムでは政が中華統一して少し後までが描かれる可能性が高いでしょう。
そうなると李信も身近にいるはずですし、この李信は政にとっての心の支えになりそうな伏線がキングダムでも張られています。
李信という心強い友がいるという環境の中で、キングダムの中では政は闇落ちすることはないと思われます。
キングダム終了後の政は闇落ちする?
ただキングダムの中では闇落ちしないであろう政ですが、キングダム終了後の展開で闇落ちすることは充分に考えられます。
中華を統一した政は、絶大な権力を持っています。
この政に対して直接モノを言えるのは、李信だけになる可能性もあります。
そして李信が生きている間は政に抑えが効くものの、政よりも李信が先に死亡する展開になってしまえば、抑えが効かなくなった政が闇落ちしてしまうことも考えられるのかもしれません。
政の闇落ちを防げるとすれば、それは李信だけになるのではないか?
それが私の推測になります。
(参考文献:徳間書店 史記Ⅲ 独裁の虚実)
\ 私はこれを参考にしました↓ /
キングダム政の史実の実像は? まとめ
このシーンは何か好きなんだよ。
最近、ずっと王騎将軍の矛だったから、漂の名前と政の名前が揃って出て、久し振りの剣だからワクワクしましたよ。
だから、キングダムは素晴らしい作品なんだよ。
良かったら読んでみて下さい。#キングダム pic.twitter.com/SRsyLmxVWN
— Ein’s≠Zelle (@Eins_clothing) August 8, 2021
ここまで始皇帝こと秦王・政の史実の実像について迫ってみました。
キングダムの政は光ある優れた王として描かれていますが、史実の政も史記の中では大きな批判にさらされています。
しかし史記が書かれた時代は秦の後の漢の時代であったことから、秦の始皇帝を悪く言うことで自らの正当性を高めようとする狙いがあったようには思えます。
また本当に史実の政が人として問題があったなら、優れた人物からも見放されてしまい、中華統一という偉大な結果は残せなかったのではないか?と思います。
史実の政に問題があったとすれば、中華を統一した後のことだと思われます。
特に過ちを指摘してくれる人を遠ざけたことで、その結果として自らの過ちに気付くことが出来ず、秦国を誤った方向に向かわせてしまったかもしれません。
ただそれは中華を統一して絶大な権力を握ったら、政でなくてもこうなった可能性はあり得ますし、漢を創始した高祖・劉邦も、それまで功績のあった部下を追い詰めるなどの行為を行っています。
それだけ絶大な権力は人を狂わせるのかもしれない、というのが私の考察になります。
それでは以上でキングダムの政の史実に関するご紹介と考察を終わります。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!