キングダムは秦の始皇帝が中華統一をする時代の歴史漫画です。
このキングダムには王騎や摎(きょう)といった六大将軍が登場してきます。
現在では新しい六大将軍が任命されましたが、それではこの六大将軍は史実に実在したのでしょうか?
またキングダムの初代・六大将軍に名を連ねた将軍たちの最後は、どのような形だったでしょうか?
こちらではキングダムの六大将軍が史実に実在したのか?
また初代の六大将軍のそれぞれの歴史上の最後についてもご紹介していきます。
Contents
キングダム六大将軍は史実に実在しない?
秦の六大将軍制度はそれぞれの
将軍に戦争を始める自由を与え
六国に対して領土を拡大させたこれは会社組織でいうところの
カンパニー制とほぼ同じ形態で
経営視点を持ったリーダー人材
が現場で迅速な意思決定を行う令和の時代にも六大将軍制度は
マッチするかもしれませんね#働くエンタメ pic.twitter.com/hxqVaj81Po— 石井雄太郎@働くエンタメ (@yutaro_ishii) December 20, 2020
ではキングダムの六大将軍が史実に実在したのか?
まずこの点からのご紹介ですが、秦の始皇帝やひいおじいちゃんの昭王の時代に六大将軍という制度があったという事実はありません。
ただ昭王の時代に六大将軍に名を連ねた将軍たちは史実に実在はしています。
その六人は以下の通りです。
- 王騎
- 摎(きょう)
- 白起(はくき)
- 王齕(おうこつ)
- 司馬錯(しばさく)
- 胡傷(こしょう)
ではこの六大将軍に名を連ねた人物の史実での活躍をご紹介していきます。
王騎将軍の史実での活躍は?
王騎将軍の史実での活躍は以下の記事に詳しく記載していますので、こちらでは簡単に王騎将軍の活躍をご紹介します。
①紀元前257年に趙の邯鄲を包囲
王騎将軍は昭王の時代にその名が刻まれていて、昭王の50年・紀元前257年に王騎将軍は趙の邯鄲(かんたん)を包囲。
しかし魏の信陵君(しんりょうくん)が魏軍を率いて秦軍を攻撃すると、秦は邯鄲の包囲を解いて撤退したことになっています。
この時の戦いは邯鄲が陥落の危機に迫ったほどだったと言われていますが、信陵君により撤退を余儀なくされています。
②紀元前246年に将軍に任命される
また政が秦王になった紀元前246年に、蒙驁(もうごう)や麃公(ひょうこう)と共に将軍に任命されています。
③紀元前244年に死亡
そして政が秦王になって3年目の紀元前244年に、王騎将軍は死亡したという記録が残されています。
しかし王騎将軍の死因について、史実には詳しく記録が残されていません。
失われた記録も多かったのかもしれませんね。
摎の史実での活躍は?
次に摎(きょう)の史実での活躍をご紹介しますが、摎の史実での活躍は以下の通りです。
①紀元前256年に韓を攻撃
将軍として韓を攻撃し、陽城(ようじょう)と負黍亭(ふしょうてい)という地を奪い取ったと言われています。
そして同じ年に摎は趙も攻撃して、20県余りを奪取することに成功しています。
また西周の文公が秦を攻撃した時には、摎が反撃。
西周を降伏させることに成功しています。
②紀元前254年に魏を攻撃
次の摎の活躍は、魏を討って呉城という城を奪ったことが記録に残されています。
白起の史実での活躍は?
次の白起は六大将軍のうちで一番功績を挙げています。
史実での活躍ぶりは筆頭。
ただ白起の活躍が多いので、こちらでは大きな戦果のみをご紹介していきます。
①紀元前290年代に韓や魏を攻める
紀元前293年には韓と魏の連合軍と戦って24万の敵兵を斬首し、魏の5城を攻め落としています。
次の紀元前292年には魏を攻めて、大小61の城を奪ったと伝えられています。
②紀元前270年代に楚や魏を攻める
また紀元前278年には、楚を攻めて楚の首都・郢(えい)を落としています。この結果、楚は陳(ちん)に首都を移しています。
紀元前273年には、魏の華陽を攻めて韓・魏・趙三国連合軍の将を捕虜にして、13万の敵兵の首を斬っています。
③紀元前260年代に韓と趙を攻める
また紀元前264年には、韓の5つの城を攻め落として、5万の兵を斬首しています。
そして紀元前260年は、あの長平の戦いです。
ここで白起は趙括(ちょうかつ)率いる趙軍を兵糧攻めに追い込んで大勝。
突撃戦を敢行した趙括は戦死し、残りの趙軍は降伏したものの、反乱の恐れから40万の趙兵を生き埋めにしたと伝えられています。
王齕の史実の活躍は?
次の王齕(おうこつ)の史実での活躍は以下のようになります。
①趙を攻めて領土を奪う
王齕は紀元前260年に上党を攻め落として、白起が率いた長平の戦いでは副将を務めています。
また紀元前259年には、皮牢(ひろう)を攻略します。
②趙の邯鄲を攻めるも落とせず
紀元前258年には、秦が趙の邯鄲を攻めるものの苦戦したため、将を王陵から王齕に変更しました。
ただ紀元前257年には邯鄲を攻め落とせずに引き返しています。
③魏や韓を攻める
紀元前257年に、王齕は魏を攻めて汾城を落としています。
紀元前247年には、韓の上党を攻めて太原郡としました。
また魏の信陵君が五か国連合軍で秦に侵攻してきたのを王齕は蒙驁と迎え撃ったが敗れたと記録されています。
司馬錯の史実での活躍は?
次の司馬錯は蜀という地を攻めたことで知られています。
①張儀との議論に勝利し蜀を併合
紀元前316年に、司馬錯は張儀と論争をしたと伝えられています。
この時の秦王は、韓と蜀のどちらを攻めるかを迷っていました。
そこで張儀は韓を攻めて周の天子としての責任を問いただし、天子を抱え込んで天下に号令を下すことを訴えました。
しかし司馬錯は、土地を広げて民衆を富ませることで、国力の増強と兵力の増強を考えていました。
そこで秦の西に位置する蜀(しょく)を併合することを司馬錯は提案し、秦王は司馬錯の提案を了承。
司馬錯は自ら蜀を攻めて滅ぼすことに成功します。
また蜀で起こった謀反を司馬錯は鎮圧することにも成功しています。
②楚や魏を討つ
紀元前311年には、司馬錯は楚から商・於の地を奪い取ることに成功。
紀元前291年から紀元前286年にかけては、魏を攻めて垣城(えんじょう)など複数の地を奪い取ることに成功。
紀元前280年には再び楚への侵略を成功させます。
胡傷の史実での活躍は?
またキングダムでは軍略の天才と描かれていた胡傷でしたが、胡傷の史実での活躍は以下のようになっています。
①華陽の戦い
紀元前273年に趙と魏が韓を攻めた時に、韓は秦に救援を求めてきました。
秦は白起を派遣し、胡傷の軍を韓の救援に派遣。
不意を突かれた趙と魏の連合軍は秦に大敗して、魏は13万もの将兵の首を討たれたと伝えられています。
この勢いに乗じて秦は魏を攻めて、胡傷は巻・蔡陽・長社という土地を奪い取ったとされています。
②閼与の戦い
紀元前269年に、胡傷は趙の閼与(あつよ)を攻めるものの、敵将趙奢(ちょうしゃ)に大敗したおと伝えられています。
キングダム初代六大将軍のそれぞれの最後は?
秦の六大将軍という設定はキングダムを名作たらしめた所以だと思う。三国志演義でも「五虎大将軍」のように枠を設けて、有力な武将を当て込む手法がとられてきたが、春秋戦国においてはそんな例がなかった。
もちろん逸話などは作品オリジナルの要素が強いが、興味を持つにあたっては十分機能している pic.twitter.com/exLGS2ZKuz— ヒスペディアRYO🌐歴史好きの味方 (@kidotakayosi74) March 28, 2019
また初代の六大将軍に名を連ねた将軍たちの史実での最後は、どのような形だったのでしょうか?
古い時代のことだけに、あまり詳しい記録が残されてはいません。
王騎将軍は紀元前244年に亡くなったことが伝えられていますが、どのような最後を迎えたのかは詳しい記録が残されていません。
摎と王齕(おうこつ)、それに司馬錯と胡傷も、史実での死亡の記録が残されていません。
ただ白起だけは大きな功績があったためか、最後の死亡に関する詳しい記述が残されています。
白起の最後は大活躍した将軍らしからぬ悲劇的な最後でした。
白起は自害に追い込まれた?
紀元前257年に、白起は昭王によって自害に追い込まれています。
ここに至る経緯は、あの長平の戦いから始まっていました。
長平の戦いで大勝した白起は邯鄲に攻め込もうとしましたが、白起の功績を恐れた時の宰相だった范雎(はんしょ)がその白起の動きを止め、さらに大幅に譲歩した条件で趙と和睦を結びました。
このことで白起は范雎に疑念を持つようになります。
その後、秦が趙の邯鄲を攻めることになりましたが戦況が思わしくなく、昭王は白起に出陣を命じましたが、白起は病気と称してこの命令に応じませんでした。
范雎も白起に出陣を依頼するも、白起は首を縦に振らず。
そうしているうちに楚と魏の連合軍が邯鄲を囲む秦軍に襲い掛かり、秦軍は大打撃を受けることになります。
それを聞いた白起はこう言います。
「言わぬことではない。わたしの意見を採用していれば、こんなことにはならずに済んだものを」
秦の昭王の耳にこのことが伝わると、昭王は激怒。
昭王はどうしても白起に出陣させようとするものの、白起は重病と称して動こうとしませんでした。
白起はそのことによって武安君という地位を取り上げられ、一兵卒として僻地(へきち)に移住するよはう命じられますが、白起の移住は病気のために延期になっていました。
その後に白起に対して移住の厳命が下り、白起は移住先へ向けて出発します。
ただ昭王や宰相・范雎たちの話し合いの結果、「白起は今回の処分が不満で、王を逆恨みする言動があった」として、使者を派遣して剣をわたした上で、白起に自害するように命じました。
当初、白起はこの命令に対して納得していませんでしたが、長平の戦いで40万もの兵をだまして生き埋めにしまったことの報いであるとして、潔く自害したと伝えられています。
この白起の非業の最後は、秦の民衆の同情を集め、至るところの村でまつられるようになったと言われています。
キングダム六大将軍は史実に実在しない? まとめ
キングダムで
一番好きなキャラクターは六大将軍の摎(きょう)
男性性と女性性のバランス
愛する王騎への想いを貫き
圧倒的なパワーで
将軍に上り詰めた人愛の力は人の底力を
引き出すのかも知れませんね#キングダム#キングダムで学ぶ最強のコミュニケーション力 pic.twitter.com/Af3HNe4dfR— 安保 奈緒美/経営者・管理職向けコーチング/TCS認定シニアコーチ (@naomicoach7) September 2, 2020
ここまでキングダムの初代の六大将軍が史実に実在したのか?
また六人の将軍たちの史実での活躍や最後についてご紹介してきました。
六大将軍という制度そのものは史実には存在しなかったものの、初代六大将軍となった武将たちは史実に実在していました。
その中では白起の功績が群を抜いており、白起一強とさえ思えるほどの活躍ぶりを見せています。
しかし白起の最後は自害を命じられるという痛ましい最後でした。
時は移り、キングダムの中では政の時代になって六大将軍の制度が復活しましたが、これからのキングダムでは二代目の六大将軍の活躍が見ものですね。
それではこれでキングダム六大将軍が史実に実在したのか?という点に関するご紹介を終わります。
最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。