キングダムは秦の始皇帝の時代が描かれた人気マンガですが、呂不韋という商人についても描かれてきました。
キングダムの中では呂不韋が秦という国を乗っ取るために様々なことを画策してきましたし、暗殺者を使って政の命を狙ったこともありました。
ただ呂不韋自身が毐国(あいこく)の反乱に関与したことが発覚したこと、そしてその反乱に敗れたことから政との権力争いに敗れて失脚することになります。
これまでは政も呂不韋を裁くことはできませんでしたが、毐国の反乱に敗れたことからここから呂不韋が裁かれていきましたが、政権の中枢から離れた呂不韋の元に人が集まったと史実にも記録が残されています。
失脚したもののまだ力を失っていない呂不韋は、この後でどのような最後を迎えたのでしょうか?
こちらの記事では史実とキングダムの中での呂不韋の最後の死亡の様子を見ていきたいと思います。
それでは最後までお楽しみください!
Contents
呂不韋(りょふい)の史実での最後の死亡は?
毐国(あいこく)の反乱に敗れた呂不韋。そういえば呂不韋はまだキングダムの中では処罰を受けていませんね。呂不韋の処罰は半年先だとキングダムの中では描かれていましたが、呂不韋はどんな裁きを受けるんでしょうね?#キングダム pic.twitter.com/FuXVh8sfxO
— comic-search (@search_comic) May 10, 2020
それでは政との権力争いに敗れた呂不韋がどうなるかですが、史実をひも解くと呂不韋は毐国(あいこく)の反乱に関与したとしてまず始皇10年に相国(しょうこく)という職を解かれることになります。
ここで史実での秦王・政は、この時点で呂不韋を誅殺(ちゅうさつ:罪を理由に殺害すること)するつもりでしたが、前の秦王に対する功績が大きかったことや、呂不韋をかばう人たちも多かったため、ここでは秦王・政は呂不韋を処罰することは行わなかったと言われています。
そしてその後、呂不韋は領国の河南(かなん)という場所に蟄居(ちっきょ:家の中に閉じこもって外出しないこと)を命じられることになります。
こうした形で呂不韋は失脚することになりました。
呂不韋の史実での最後の死亡は?
ただ蟄居をしてからも呂不韋の名声は衰えることを知らず、諸国の使者や客人が呂不韋への会見を求めて道に列をなすありさまだったと伝えられています。
このことを恐れたのが秦の始皇帝。
呂不韋の謀反(むほん)を恐れて次のような親書を送ったと言われています。
貴公はいかなる功績があって河南の十万戸を与えられているのか。秦とはいかなる血縁関係があって仲父(ちゅうほ)と呼ばれているのか。ただちに一家をひきつれて蜀(しょく)に移り住むがよい
(※仲父とは父に次ぐものの意味)
これを受け取った呂不韋は「もはやこれまで」と自分が次第に権勢をそがれていくこと、そして結局は罪をとがめられて処刑されることを悟ることになります。
そして呂不韋の末路は毒を飲んで自害したと史記には伝えられています。
(徳間書店 史記Ⅲ「独裁の虚実」より)
呂不韋が亡くなったのは始皇12年。
これは紀元前236年のことと言われています。
秦の鄴攻めは始皇11年のことでしたので、この翌年に呂不韋は毒を飲んで自害することになります。
呂不韋の史記での評価は?
ちなみに史実での呂不韋の評価は、それほど良いものではありません。
「孔子のいわゆる聞(ぶん)とは、それ呂子か。」
(孔子のいう「聞(ぶん)」なる者とは、呂不韋のような人物を指すのではないか。)
(参考文献:徳間書店 史記Ⅲ「独裁の虚実」)
「聞なる者」というのは、表面上は仁徳があるように見せかけて、その行動は仁徳とは違うのですが、そんな自分に矛盾すら感じない人を指します。
転じて実質のない売り込み屋、自己顕示欲の塊(かたま)りを指す言葉です。
呂不韋の生前の行動は、一介の商人から相国(しょうこく)という地位に上り詰めたように、機を見るに敏で苦労も重ねたはずですが、秦王・政の母親の太后と密通を重ねるなど、仁徳とはかけ離れた行動を確かに起こしています。
そして都合が悪くなると、呂不韋は嫪毐(ろうあい)という人物を太后にあてがい、その嫪毐は毐国(あいこく)を作り、秦に対して反乱を起こすまでになりました。
こうした事態を起こさないように王を補佐することが役目だったはずですが、若い王を前に実権を握ったことで呂不韋もおかしくなったのかもしれません。
商人から相国(しょうこく)に上り詰めた手腕は、見事という他はありません。
ただその後の呂不韋の言動に対しては、このような評価や評論が妥当と言えると思います。
キングダムでの呂不韋(りょふい)の最後は自害!
それではキングダムの物語の中での呂不韋の最後ですが、史実と同じく毒を飲んで自害という末路になっています。
これは何巻かといえば、単行本では60巻収録予定の第648話「大王の問題」の中でした。
ただ経緯は史実とは少し違いました。
呂不韋が蟄居(ちっきょ:家に閉じこもって外出しないこと)していた河南(かなん)に多くの人が集まっていたことは史実と同じでした。
ただ史実ではそれが単に呂不韋の名声から人が集まってきたことになっていましたが、キングダムでは呂不韋の元に集まっていたのは今の朝廷からはじき出された竭氏(けつし)や呂不韋派の残党だったことになっています。
(もしかすると史実でも、権力の中枢に戻りたいと願う人たちが呂不韋の元に集まってきた可能性もありますが。)
そしてキングダムでは、政は呂不韋の目を確かめるために一対一で会いに行きます。
河南の不穏な動きを抑えるように―――
これが政の呂不韋に対する要求でした。
そこで呂不韋はこれでも充分に抑えていること。
また反乱分子が呂不韋の元に集まるのは、呂不韋を死刑にしなかった大王の優しさが原因であることを呂不韋は政に語りかけます。
この点は史実とは少し違う点で、政が光ある優しい王としてキングダムでは描かれています。
その後、呂不韋は政を抱きしめますが、この前に趙の悼襄王が太子・嘉(か)を抱きしめた時、耳を噛みちぎった場面がありました。(単行本59巻・644話「桃泉殿」)
少しこの場面はヒヤっとしましたが、ここでは呂不韋はそのような蛮行(ばんこう)は行わず。
そして河南は責任をもって抑えると呂不韋は政に約束するものの、1か月を経過しても状況は変わるどころか不穏な勢力が拡大する一方。
そのため咸陽は呂不韋から領地と財産を全て取り上げることを決定。
このことを呂不韋に伝えると、呂不韋はそのまま毒を飲んで自害することになりました。
呂不韋のいる河南の異変が伝えられて2話で、呂不韋自害というスピーディーな展開。
個人的にはここで呂不韋が趙など他の国と通じていて、最後の巻き返しのチャンスとばかりに謀反を起こして他の国と一緒に戦うことも考えていましたが、そのような展開にはなりませんでした。
大物のあっけない最後は少し拍子抜けという印象もありましたが、キングダムではどうも呂不韋は生存しているかのように描かれています。
呂不韋(りょふい)は生存している?その後はどうなる?
さてではキングダムでの呂不韋は生存しているのでしょうか?
上記の馬車に2人の女性と同乗していたような呂不韋。
この場面が描かれていたということは、キングダムの中では呂不韋はまだ生存していると考えて良いでしょう。
つまりこれは今後の何らかの伏線の一つ。
では呂不韋のその後はどう生きていき、どのような形でキングダムの中に登場するのでしょうか?
呂不韋のその後は?①
さてキングダムの中ではどうも呂不韋は生存しているようです。
それではここからの呂不韋はどのように生きていくでしょうか?
呂不韋は莫大な財産を持っていましたが、財産は咸陽から没収されてしまいました。
ですので莫大な財産を持って行って、2人の女性と優雅に暮らしたかと言えば、それはできない状況でしょう。
そうなると何らかの形で呂不韋も働いたのだと思いますが、元々商人から相国(しょうこく)にまで上り詰めた逸材。
上手く商売を行って稼ぐ能力はあるはずですので、一から商売を始めて充分な稼ぎを得て暮らしていったのではないでしょうか?
もしかすると呂不韋のことですので、連れて行った2人の女性は美女でこの2人の美女を活用して夜のお店を始めた。
なんてこともあるのかもしれませんね。
呂不韋のその後は?②
または政と天下について語った時、呂不韋は富という豊かさで全体を包み込むという中華の統治を示したことがありました。
それは何巻のことかと言えば、単行本39巻・第424話「夢のような国」のことです。
ここで御すのは金でなく「人の欲望」だと喝破(かっぱ:物事の本質を明言)した呂不韋。
そして富で中華を統治する方法を提示しますが、それは秦なくして経済の回らない世の中でもありました。
呂不韋は自らが描くこの中華の統治方法を実践しようと、その後は奮闘していくのかもしれません。
商売をして富を蓄えて大企業を作っていき、自らの企業がなければ回らない小さな経済圏を作り上げていくことに挑戦していくのかもしれませんね。
呂不韋のその後は?③
また呂不韋は政との会談の最後に、気になる発言をしていました。
「惜しむらくは あなた様の中華統一の様(さま)
そして作られるであろう新世界をこの両の目で見て回りたかった」
財産を没収された呂不韋は、お金を稼ぐために商売を始めるはずですが、統一した中華の姿を見るためには長生きする必要が出てきます。
そうなると商売はそこそこに健康を重視した生き方をするのかもしれませんし、その後は政の作り上げる世界を見て回る旅を生きがいにしていくのかもしれません。
政との天下に対する議論で負けたままの目をしている呂不韋。
自分の説が正しいことを証明することに力を注ぐより、政の作り上げる世の中を見ることに大きな興味を持っているようでもあり、中華のあらゆる場所に旅行して、政の作り上げた世の中の評判を聞き歩くのかもしれません。
そして今後のキングダムの物語のどこかで、一コマの隅にでも旅をしている呂不韋の姿が描かれるのかもしれません。
まとめ
始皇帝と呂不韋は親子だったということが史記にも書かれています。実際に呂不韋の妾(めかけ)を始皇帝の父親が夫人にしたわけですが、呂不韋と始皇帝の関係は本当のところはどうだったのか?想像をかきたてる出来事なのは確かですね。#キングダム pic.twitter.com/JDH1o3QQpN
— comic-search (@search_comic) May 16, 2020
ここまでキングダム呂不韋の史実での最後とキングダムでの最後を振り返りました。
史実では権勢がそがれていくことや罪を問われて殺害されることを悟った呂不韋は、自ら毒を飲んで自殺したことになっています。
そしてそれはのちの始皇帝となる秦王・政が呂不韋の謀反を恐れていたとも伝えられています。
ただキングダムでは呂不韋謀反の恐れを抱いたのは政ではなく、肆氏(しし)であったように描かれていました。
キングダムでの政は光ある指導者として描かれていますので、この軸をブラさずに呂不韋自害を原先生は描いたと言えます。
またキングダムでは呂不韋は自害して死亡したのではなく、馬車に乗って外出したようにどうも生存しているように描かれています。
この場面がある以上は、おそらく今後もどこかで呂不韋が出て来るのだと思いますし、馬車で移動した場面はその時の伏線になるのだと思います。
そしてその後の呂不韋がどう過ごしていくのか?
商人として成り上がった経歴の持ち主でしたので、その後も普通に商売を成功させて生きていくのだと思いますが、政の作るであろう世の中に興味があったように見える呂不韋。
長生きして政の中華統一とその後の世界を見るために、商売はそこそこに健康を重視して生きていき、旅をして統一後の中華を見て過ごすことも考えられます。
他にも様々な展開が考えられますが、それではこれで呂不韋の最後に関する考察を終わります。
最後まで読んでいただいてありがとうございました!!