佐々木朗希投手は、完全試合を達成するほどの成長を遂げました。
2日続けての完全試合か?と思わせた活躍は記憶に新しいですが、佐々木朗希投手の出身高校はどこだったのでしょうか?
また佐々木朗希投手がいた頃の高校の野球成績や、高校時代の球速は?
そして高校時代の監督は、甲子園予選の決勝で佐々木朗希投手を登板させないという決断を下しました。
その理由には何があったのでしょうか?
こちらでは佐々木朗希投手の高校時代の成績や球速などをご紹介していき、高校時代の監督が甲子園予選の決勝で佐々木朗希投手を投げさせなかった理由についてご紹介していきます。
それでは最後までお付き合いください!
Contents
佐々木朗希投手の出身高校はどこ?
【三陸だより13】史上最年少での #完全試合 達成から一夜明けた11日、千葉ロッテマリーンズの #佐々木朗希 投手が高校までを過ごした大船渡市の複合施設「おおふなぽーと」に、快挙を祝福する横断幕が掲げられました。出身地の陸前高田市でも大いに盛り上がっています。 pic.twitter.com/c8b7yLWf9v
— 奥田伸一/三陸釜石 (@mainichi_okuda) April 11, 2022
さて佐々木朗希(ろうき)投手の出身高校はどこだったのでしょうか?
佐々木朗希選手の出身高校は、地元にある大船渡(おおふなと)高校でした。
この大船渡高校は、昭和59年に春夏の甲子園に出場したこともあります。
また春の甲子園では、ベスト4に進出したこともあります。
大船渡高校の甲子園出場はこの2回だけでしたが、大船渡高校は野球の強豪として知られています。
ではなぜ佐々木朗希投手は、大船渡高校を選んだのでしょうか?
佐々木朗希投手が大船渡高校を選んだ理由がスゴい?
ちなみに佐々木朗希選手は中学時代から注目されていて、名門校が佐々木朗希選手の視察に来ていたとも言われています。
そんな佐々木朗希選手は、岩手県の内外の強豪校から声が掛かったようです。
大阪の大阪桐蔭高校や、同じく岩手県内の花巻東などの強豪校・名門校が、佐々木朗希選手の獲得に動いていたと言われています。
ただ佐々木朗希選手は、こうした強豪校の誘いを全て断ります。
その理由は、「地元の仲間と甲子園に行きたい」というものでした。
「まず、私立高校を倒したかったですし、中学時代にいろいろな地元のメンバーとやってきて、このメンバーなら行けるんじゃないか? と。ここで勝つことに、意味がある。私立に行って甲子園に行くよりも、この大船渡高校の仲間と甲子園に行くことのほうが難しいですし、でも、その中で行けた経験というのは、自分にもチームにもすごく良い力になる。過程を大事に皆で、頑張りたい」
「人数が少なくても『自分たちでも頑張ればできるんだ』ということを、勝って証明できればいい。岩手であったり、地元もそうですし、東北も元気づけられると思うので、それが自分たちの役割だと思っている。結果だけがすべてではありませんが、結果として勝つことが一番の恩返しになると思う」
「ここまでつらい練習も一緒にやってきて、仲間同士の絆は強くなっている。ふだんの学校生活もずっと過ごしてきて、このメンバーで甲子園に行くことが大切だと思っている」
(引用元:週刊ベースボール ONLINE)
強豪の私学校で甲子園に行くよりも、大船渡高校で甲子園に行くことは難しいと自覚した上で、それでも仲間との絆を大事にした佐々木朗希選手。
ここでの経験が、現在の活躍にもつながっている面があるのかもしれませんね。
佐々木朗希選手の高校時代の野球の成績は?
また佐々木朗希投手の高校時代の野球成績は、どの程度だったのでしょうか?
佐々木朗希投手が甲子園で投げなかったことはご存知だと思いますが、佐々木朗希投手が在学中の大船渡高校の野球成績は以下のようになっています。
年 | 大会名 | 結果 |
2017年 | 春季岩手大会 | 地区予選代表決定戦で敗退 |
2017年 | 選手権岩手大会(夏の甲子園予選) | 3回戦敗退 |
2017年 | 秋季岩手大会 | 2回戦敗退 |
2018年 | 春季岩手大会 | 1回戦敗退 |
2018年 | 選手権岩手大会(夏の甲子園予選) | 3回戦敗退 |
2018年 | 秋季岩手大会 | 準決勝・3位決定戦敗退 |
2019年 | 春季岩手大会 | 1回戦敗退 |
2019年 | 選手権岩手大会(夏の甲子園予選) | 決勝戦敗退 |
2019年 | 秋季岩手大会 | 3回戦敗退 |
どの試合に佐々木朗希投手が投げたのか?という点までは分かりませんでした。
ただ2019年の夏の甲子園予選は、大船渡高校は決勝まで進出しました。
しかしあと一歩のところで、佐々木朗希投手とその仲間は甲子園出場を逃すことになりました。
とはいえこうして結果を見てみると、佐々木朗希投手が仲間と共に、一歩一歩確実に歩みを進めていたことが分かりますね。
佐々木朗希の高校時代の球速は?
U-18高校日本代表候補研修合宿
試合形式練習で登板した大船渡の佐々木朗希投手がプロ野球スカウトのスピードガンで163キロを計測‼
ブルペンから157キロを計測し、星稜の山瀬慎之助捕手らが驚いてましたが、マウンドに上がると圧巻。2回を6奪三振と完璧なピッチング⚾#熱闘#高校野球 pic.twitter.com/xFkCtWOWe1— 熱闘甲子園 (@nettoh_koshien) April 6, 2019
また佐々木朗希投手は高校時代には、どのくらいの球速を記録したことがあるのでしょうか?
佐々木朗希投手は、高校日本代表の合宿中に行われた2019年4月6日の紅白戦で、非公式ですが163キロを記録しています。
この記録によって佐々木朗希投手の名前が全国区になったことは記憶に新しいですね。
ちなみに佐々木朗希投手は、2022年3月27日の楽天戦で自己最速の164キロをマークしています。
佐々木朗希選手の高校の監督は誰?
#chibalotte
佐々木朗希投手の記事、昨日の読売新聞からです。
19年夏、岩手・大船渡高校163キロをマークしながら、岩手大会決勝は、登板せず敗退。
監督の判断の是非に議論が起きましたが、佐々木投手のことを一番よく知る監督が決断し、ブレずに貫いた素晴らしい決断だったと思います。 pic.twitter.com/6qC05uPwfD— ヘッドスライディング (@nikuanka24) December 15, 2021
ちなみに佐々木朗希投手の高校時代の監督は誰だったのでしょうか?
大船渡高校で佐々木朗希投手を指導した監督は、国保陽平(こくぼようへい)監督です。
またこの国保陽平監督は、選手時代にアメリカの独立リーグで選手として活躍した実績がありました。
そして日本に帰国後には、岩手県の花巻農業高校の野球部の監督になります。
この国保陽平監督が大船渡高校の野球部監督になったのは、2017年4月からのことでした。
ちなみにこの2017年は、佐々木朗希投手が大船渡高校に入学した年のことでした。
佐々木朗希投手と国保陽平監督の出会いは、運命的な出会いだったのかもしれません。
国保陽平監督は夏の甲子園決勝で佐々木朗希投手を登板させなかった?
ちなみにこの国保陽平監督は、夏の岩手県甲子園予選の決勝で、佐々木朗希投手を登板させないという決断を下します。
これまでご紹介してきましたが、大船渡高校は甲子園の出場経験がありましたが、2019年には35年ぶりとなる甲子園をかけた戦いでした。
ここで国保陽平監督は、佐々木朗希投手を投げさせないという決断を下し、その結果として花巻東に2-12というスコアで大敗。
佐々木朗希投手は甲子園の土を踏むことなく、高校生活最後の夏を終えることになりました。
ではなぜ国保陽平監督は、佐々木朗希投手を投げさせないという決断を下したのでしょうか?
国保陽平監督が佐々木朗希投手を登板させなかった理由がヤバい?
「3年間で一番壊れる可能性があると思った。故障を防ぐために登板回避を判断した」と高校野球岩手大会決勝戦で佐々木選手を登板させず、結果35年ぶりの甲子園を逃し、250件の苦情を食らった國保監督
指導者はこうあるべきだと、スポーツで故障した子供を診察するたび思う https://t.co/yDKHST0QbC
— おると🔨🐦整形外科医 (@Ortho_FL) April 11, 2022
では国保陽平監督が、佐々木朗希投手を登板させなかった理由は何があったのでしょうか?
国保陽平監督はその理由として、以下の理由を挙げています。
「プレッシャーがあったんでしょうね。(佐々木を)壊しちゃいけないというプレッシャーが。あの若さで、あの高い身長(190cm)で、滑らかなフォームで、変化球もうまくて、牽制もうまいという才能は、世界の野球の歴史を変えるかもしれない。だからこそ、壊さずに次のステージへつなげなければならないと思っていました」
「故障を防ぐためです。ここまでの球数、登板間隔、気温……投げられる状態にあったかもしれませんが、私が判断し、投げさせませんでした。もちろん、私が『投げなさい』と言えば、本人は投げたと思うんですけど、私にはその判断ができませんでした」
「歩き方を含めた彼の様子を見て、決めました。高校3年間で一番、ケガのリスクがあるな、と。球が速い彼の場合、肩やヒジだけでなく、身体のどこに故障が出てもおかしくないですから」
(引用:NEWSポストセブン)
ちなみに国保陽平監督が佐々木朗希投手を登板させないことを決めたのは、当日の朝だったそうです。
まだ若く、体が充分にできていなかった佐々木朗希投手の故障を避けるため、国保陽平監督は佐々木朗希投手に投げさせないという決断を下したのでしょう。
またその選手の疲労度など細かな部分は、野球選手を多く見てきた監督だからこそ、そして目の前で見ているからこそ分かることも多いと思います。
では、佐々木朗希投手はそれまでどのくらいの球数を投げていたのでしょうか?
その試合までの佐々木朗希投手の球数は?
ちなみに夏の甲子園予選の決勝まで、以下の試合で投げていました。
まず前日の準決勝では、一関工戦で129球の球数を投げていました。
また4日前の4回戦の盛岡四戦では、延長12回までを投げ抜いて194球を投げ抜いています。
佐々木朗希投手のその大会での球数と、本人の体の成長度合いや疲労度など様々な点を考慮して、国保陽平監督は佐々木朗希投手を決勝で投げさせないという決断を下したのでしょう。
ちなみに佐々木朗希投手は、中学3年の時に腰の疲労骨折が判明したことがありました。
故障はクセになることもありますので、国保陽平監督は慎重な判断を下したのだと思われます。
佐々木朗希の高校はどこ?監督がヤバい? まとめ
佐々木朗希投手
今日も8回までパーフェクトとか!高校時代、甲子園の岩手県大会
決勝で登板することなくチームは敗退
準決勝までかなり投げたため
故障を回避する監督の判断だったとか現在の活躍を見ると
監督の判断は正しかったと思えますね!#佐々木朗希 #千葉ロッテマリーンズ pic.twitter.com/I9KYUuUZSx— すみちぇる (@yoko_sumi8) April 17, 2022
ここまで佐々木朗希(ろうき)投手の高校時代をご紹介してきました。
以下がまとめになります。
- 出身高校は大船渡高校
- 大船渡高校を選んだ理由は、中学時代の仲間と甲子園に出るため
- 高校時代の野球の最高成績は、夏の甲子園予選の決勝まで
- 高校時代の球速は非公式ながら163キロを記録
- 高校時代の監督は国保陽平監督
- 国保陽平監督が決勝で投げさせなかったのは故障を避けるため
佐々木朗希投手は、若干20歳で完全試合を達成するほど、目覚ましい成長を遂げています。
佐々木投手の成長の背景には、高校時代に無理をしなかったことも要因なのかもしれません。
またこれまでの甲子園では、決勝まで一人の投手が投げ切ることが普通でしたし、そのエースの投球に私も感動してきた一人です。
しかし感動させてくれた甲子園のエースが、その後にプロで活躍しないケースも多かったと記憶しています。
そしてそんな消耗した甲子園のエースを、いつか私たちは忘れてしまいます。
また私たちが彼らに対してできることは限られています。
その点に一抹の罪悪感もありますが、選手の故障を避けるような起用方法が広まってきています。
そして才能ある選手が長く活躍できる環境が整いつつある傾向は、私たちに大きな夢を見せてくれることにつながっていくのかもしれませんね。
今後の佐々木朗希投手の活躍にも期待です!
それでは以上で、佐々木朗希投手の出身高校や高校時代の成績・球速、そして高校時代の監督が佐々木朗希投手を甲子園予選決勝で投げさせなかった理由のご紹介を終わります。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。