キングダム昌平君の裏切りとは?史実の裏切りと最後はラスボス?

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キングダムは古代中華の秦の始皇帝時代を描いた大人気漫画です。

このキングダムは秦が主役となっていますが、この秦軍総司令という立場に昌平君というキャラクターがいます。

この昌平君はイケメンでかっこいい武将で、知略が優れていることはもちろん武力も一級品で、知勇兼備の武将として描かれています。

ただそんな昌平君は史実では最後で秦を裏切って楚の王になり、王翦と蒙武に倒されたことになっています。

それでは漫画キングダムの中でも、昌平君は最後に裏切るのでしょうか?

こちらではキングダムで昌平君が裏切るのかを考察しながら、その最後がどのようになるかを史実を踏まえてご紹介していきます。

それでは最後までお楽しみください!

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Contents

   
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キングダム昌平君の裏切りはある?!

まず昌平君のこれまでの行動の中での「裏切り」でいえば、呂不韋を裏切ったことがありました。

この時の理由としては、昌平君も中華統一を夢見ていたこと。

そして政はその中華統一の夢を任せても良いと思える王であったこと。

そのことから毐国(あいこく)の反乱が起こったその時、昌平君は「世話になった」という一言を残して、呂不韋と袂(たもと)を分かつ決断を下すことになります。

この時に呂不韋は気になることを言っていました。

それは昌平君という人物に対する評価ですが、昌平君のことを”本来 人の下につくような人物ではない“と言います。

今現在は昌平君は政の下についているとはいえ、本来の気質として「人の下につくような人物ではない」のが昌平君の本質なのかもしれません。

そうすると今後は、政の下につくことにも納得できなくなる時が訪れるかもしれない―――

そんな展開があるのかもしれません。

また公式ガイドブックを見ると、気になることが書いていました。

この公式ガイドブックに書かれていたこととは何なのでしょうか?

 

公式ガイドブックでは昌平君の寝返り度100?!

またキングダムの公式ガイドブックによると、昌平君の「寝返り度」は100となっています!

最初に出たガイドブックでは、昌平君の「生い立ち」が「複雑」となっていました。

しかし次に出たガイドブックでは「寝返り度」が「100」に変わっていました!

呂不韋から袂を分かつことになりましたが、これだけで寝返り度が100となるのはどうなんでしょう?

これは昌平君が史実通りに楚に寝返るということを示しているのかもしれませんね。

それでは史実ではどのようにして昌平君は、楚に寝返ることになったのでしょうか?

これから昌平君の史実のエピソードをひも解いていきます。

 

 
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史実の昌平君は秦王・政の怒りを買った?


さて史実の昌平君ですが、嫪毐(ろうあい)の反乱の鎮圧の功績を評価されて右丞相になったと言われています。

ちなみにこの時には叔父さんの昌文君が左丞相になっていますが、丞相の地位は右と左ではどちらが上だったのでしょうか?

秦と漢の時代には右の方が地位が上だったとされていますが、のちの魏と晋の時代には左の方が地位が上になったと言われています。

この辺りは時代によって変わったことになりますが、秦の時代は右丞相が左丞相より上。

つまり、昌平君>昌文君という図式だったことになります。

位、人臣を極めたと言える昌平君。

しかしここからこの丞相という地位を辞めさせられるという事態が起こってしまいます。

時は紀元前226年。

楚の攻略のために、秦王・政は李信と王翦(おうせん)に必要な兵数を質問したことがありました。

この時に李信は20万と言い、一方の王翦は60万だと答えましたが、秦王・政は王翦は年老いて気力が衰えたと判断。

李信の方が気概があって頼りになると考えて、秦王・政は李信と蒙恬(もうてん)に20万の兵を与えて楚に出陣させることになりました。

ここで王翦は将軍をやめさせられることになりますが、この時に秦王・政を諫(いさ)めた(過ちを指摘して改善を求めた)のが昌平君でした。

しかしここで昌平君は秦王・政の怒りを買うことになり、丞相の地位をやめさせられることになります。

う~ん、史実の秦王・政は短気なのでしょうか?

こうした経緯で昌平君は丞相という地位を追われることになってしまいます。

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昌平君の最後と項燕との関係は?

そして史実では、紀元前230年。

郢陳(えいちん)という土地の民衆が動揺したので、この民衆を落ち着かせるために楚の王族でもある昌平君がこの地に送られたそうです。

(この点は流刑になった、との解釈もあるようです。)

そしてその5年後の紀元前225年には、秦の李信と蒙恬率いる20万の軍勢が楚の攻略に出陣します。

ここで昌平君のいた郢陳で反乱が発生してしまいます。

この反乱を李信の軍が討伐に向かったところ、李信率いる秦軍は楚の項燕の奇襲を受けて大敗北を喫することになりました。

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そして紀元前223年。

楚王が秦によって捕まると、昌平君は項燕によって新たな楚王として担ぎ上げられることになります。

そこで昌平君は、項燕の要請を受けてしまうことになります。

それは秦に背く形となりましたが、その結果として昌平君は王翦(おうせん)と蒙武の軍に敗れて戦死することになってしまいます。

秦が中華を統一したように、時代の流れはすでに秦に傾いていたはず。

それなのになぜか秦に背いた昌平君。

その背景には何があったのでしょうか?

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丞相を辞めさせられた恨みがあった?

史実で昌平君が秦を裏切った理由として考えられるのは、やはり丞相という地位を辞めさせられたことでしょうか?

王翦(おうせん)という名将をかばって、秦王・政の過ちを指摘した昌平君。

このことによって昌平君は丞相の地位を辞めさせられることになりますが、この出来事は昌平君の心の奥底にやり切れないわだかまりを生んだのかもしれません。

そのことが昌平君が楚に向かってから、項燕の要請を受けて秦に背いて楚王になってしまった理由に思えて仕方ありません。

秦王・政のこうしたやり方は、秦の中華統一に向けては大きな問題とならなかったものの、その後の秦が短命政権だったことと何か関係があったのかもしれません。

 

 
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キングダムで昌平君はどう裏切る?

それではここからキングダムの物語に話を戻していきますが、キングダムではどのようにして昌平君は裏切っていくのでしょうか?

史実では政の怒りを買ったとされる昌平君。

しかしキングダムの中での秦王・政は光ある王として描かれていますので、キングダムの政が昌平君に対して怒りを発して辞めさせる場面が想像できない面があります。

ただキングダムは基本的には史実通りに物語が展開しています。(もちろん物語ですので若干の違いはありますが。)

また昌平君は郢陳(えいちん)という土地の人々を落ち着かせるため、この地に派遣されたとも言われています。

ですのでキングダムでも同じように昌平君が郢陳に向かう展開が描かれることでしょう。

 

郢陳の反乱は昌平君が扇動した?!

しかし史実では、この郢陳で起きた反乱を鎮めるために、李信たち秦軍は楚の項燕の手によって大惨敗を喫してしまうんでしたね。

ですので、もしかするとこの郢陳での反乱はが昌平君のしわざだったという展開が、キングダムで描かれるのかもしれません。

さてそうなると昌平君がなぜ郢陳の人々に反乱を起こさせたのか?

この点が気になるところですが、キングダムではどのように描かれるのでしょうか?

 

キングダムでも昌平君は丞相の地位を失う?

もしかするとキングダムでも、昌平君は丞相の地位を追われることになるのかもしれません。

その理由としては裏切りや謀反の疑いをかけられてしまうという展開も考えられます。

趙の名将・李牧も、史実では謀反の疑いをかけられたことでその最後を迎えることになりました。

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同じような理由で昌平君も、裏切り・謀反の疑いをかけられることで昌平君は丞相の地位を失った。

そうした展開も考えられるのかもしれません。

ただキングダムでは光ある王として描かれている秦王・政ですので、おそらく政は昌平君を信じようとすることでしょう。

しかし周り(特に肆氏(しし)など)が昌平君の謀反の疑いを放置することを許さないかもしれません。

そうした周りの声もあったため、やむなく政は昌平君から丞相の地位を奪うことにした―――

そんな展開も考えらえます。

またここで裏切りや謀反の疑いをかけられる理由としては、昌平君の姉だと予想されている媧燐(かりん)が関係しているのかもしれませんし、昌平君に謀反の疑いありというウワサを流すのが媧燐なのかもしれません。

その他にも昌平君が疑いをかけられる可能性はいくつか考えられますが、これは今後の大きな見どころの一つと言えます。

ただ謀反の気持ちが無いのに処分されたということになれば、それは昌平君が秦を裏切るのに充分な理由になると言えます。

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昌平君は王翦の才能に嫉妬?

また昌平君は丞相という地位を失うことがなくても、秦を裏切るのかもしれません。

その理由は嫉妬で、昌平君が嫉妬する相手として考えられるのは、王翦(おうせん)です。

キングダムの中の王翦は、自分が王になりたいと考えているとされています。

そんな王翦は趙の鄴(ぎょう)を攻めた時に、兵糧攻め合戦を仕掛けていき鄴の陥落に成功しています。

そして斉の国から食糧を買うという案も、戦う前から王翦の口から発せられたものでしたが、その王翦の発想に昌平君は驚きの表情を見せていました。

昌平君は王翦の優れた資質を目の当たりにして、いつか自らの地位が脅(おびや)かされることを恐れて秦への裏切りを考えるようになっていく―――

そんな展開が待っているのかもしれませんね。

では裏切った後の昌平君は、どのような最後を迎えることになるのでしょうか?

 

 
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キングダム昌平君の最後は蒙武に討ち取られる?

ではキングダムでの昌平君の最後について、ここから予想・考察していきます。

史実では昌平君は、王翦と蒙武との戦いに敗れて戦死したという最後を迎えています。

ちなみにキングダムの原先生の読み切り作品に、昌平君と蒙武の関係を描いた「蒙武と楚子」という漫画がありますが、この中では昌平君と蒙武の熱い友情が描かれています。

そうなると昌平君の最後の予想としては、蒙武の手によって討ち取られるという可能性があるのかもしれません。

そういえばキングダムの657話でも、蒙武が背負っているものの描写の一コマに昌平君が描かれていたことがありました。

蒙武と昌平君はキングダム本編でも、深い友情で結ばれた関係として描かれるのかもしれません。

しかし昌平君はその最後に、親友・蒙武の手によって討ち取られるとすれば、そこに至るまでの2人の哀しみも同時に描かれていくのかもしれません。

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蒙毅の策で昌平君が敗れる?

またはキングダムでは、蒙武軍に息子の蒙毅(もうき)が軍師として参戦するようになっています。

そして王翦・蒙武軍が昌平君たちを破るとすると、もしかすると蒙毅の策で昌平君が倒される展開も待っているのかもしれません。

元々は昌平君が営んでいた軍師学校で、蒙毅は学んでいました。

弟子の蒙毅が師の昌平君をここで倒すことがあるとしても、昌平君を倒さなければならない蒙毅の胸の内はどうでしょうか?

昌平君と深い友情を築いた蒙武に加えて、昌平君から学んだ弟子の蒙毅も昌平君を倒すことに関与することになる・・・

ここでも戦いの何とも言えない哀しみが表現されるのかもしれません。

 

昌平君は見逃される?

または王翦・蒙武軍vs昌平君の戦いで、昌平君は見逃されるという展開が待っているのかもしれません。

昌平君と深い友情を築いた蒙武は、昌平君を討ち取ることができず、この戦いで昌平君を見逃すことも考えられます。

秦が楚を討つ頃には趙も滅ぼされていて、もう秦にかなう国は存在しない展開になりますし、秦の中華統一は決定的になることでしょう。

ここまでくれば、もう昌平君も秦に抵抗する気持ちも失せると思われます。

そして蒙武もそう考えて、昌平君にもう秦に逆らわないことを約束させた上で、昌平君を見逃すということも考えられます。

表舞台から去った昌平君は、その後はひっそりと静かに暮らしていき、誰からも分からない形でひっそりと最後を迎えるのかもしれません。

 

見逃された昌平君がラスボスになる?

ただここでもし昌平君が見逃された場合、昌平君がラスボスになるという展開も考えられます。

またこの時には昌平君は名前を変えて、表舞台ではなく裏方(軍事作戦の立案など)として裏で糸を引く存在としてラスボスになる展開が考えられます。

昌平君は高い武力を誇りますが、知略でも中華トップクラスですので、この昌平君が裏で糸を引く敵軍は、秦軍にとっても強敵になると思われます。

果たして昌平君の最後は、そのような形になるのでしょうか?

 

キングダム昌平君の史実での活躍は?

ちなみにここからは、昌平君の史実についてご紹介していきます。

まずは昌平君の血筋から見ていきますが、実は昌平君のお父さんは楚の考烈王(こうれつおう)で、お母さんは秦の昭襄王(しょうじょうおう)の娘です。

つまり昌平君は楚の王族を父に持ち、母も秦の王族の娘という血筋です。

ちなみに秦の昭襄王は、キングダムでも昭王(しょうおう)として描かれていた人物で、戦神(いくさがみ)とも呼ばれていましたね。

そしてキングダムでは、この昭王の時代に六大将軍が存在していたことになっています。

それはここでは置いておきますが、昌平君にはこの昭王の血も流れていたということになります。

キングダムでも昌平君は高い武力を見せることもありますが、それは昭王の血のなせる業(わざ)と言えるのかもしれませんね。

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昌平君の本名・名前は?

また昌平君の本名は何というのでしょうか?

昌平君というのは称号のことで、これは名前でも本名でもありません。

例えば趙の李牧は、秦軍を退けた功績によって武安君(ぶあんくん)に封じられたことがあります。

この「武安君」のような称号として「昌平君」というものがあったことになりますが、そのためこれは名前ではないことになります。

では昌平君の本名は何なのか?

これが詳しくは分かっていないんです。

姓は「羋(び)」、氏は「熊(ゆう)」と記録には残されています。

このように姓と氏が分かっていながら、名が分かってないんですね!

だから本名が分からないということになります。

ちなみに中国での姓と氏の関係は、「姓」という大集団があって、そこから分かれた小集団を「氏」と呼ぶそうです。

また一説には、発掘された古代の銅製品に「丞相啓」という文字があって、これが昌平君だと主張している専門家もいます。

この「啓」が昌平君の名前だとすれば、氏が「熊」ですので、昌平君の本名は「熊啓(ゆうけい)」ということになりますが、真相は定かではありません。

 

昌平君の命日は?

また昌平君の命日ですが、これは月日までは分かっていません。

紀元前223年に戦死したことが分かっていますが、それ以上の細かな日付は古代の中国のことだけに分かっていないままです。

やはり古い時代のことだけに、この辺りは仕方ないところですね。

こうなると古代中国のことで今後も明らかになることはないだろうと思うと、いっそのことキングダムの中で決めてもらいたい!なんて少し思います。

 

昌平君と昌文君との関係は?

そういえば昌平君と似た名前の人物に、昌文君(しょうぶんくん)がいます。

この昌文君も史実に実在した人物として知られていますが、歴史上では昌文君は昌平君の叔父(おじ)に当たる人物になっています。

先ほど書いたように昌平君は楚の考烈王の子供ですが、昌文君はこの考烈王と腹違いの兄弟なんですね。

だから昌文君は昌平君の叔父さんということになります。

まだキングダムでもこの2人の関係は明らかになっていませんが、これからどこかで2人の関係が明らかになるのかもしれませんね。

 

昌平君、嫪毐の反乱を鎮圧

また昌平君の史実での活躍ですが、それほど多く記録は残されていません。

まずは紀元前238年に嫪毐(ろうあい)の反乱があり、これを昌平君は叔父さんの昌文君と一緒に鎮圧したという記録が残されています。

昌平君の活躍らしい活躍といえば、この記録のみ。

他には紀元前246年。

秦王・政の時代に昌平君は御史大夫(ぎょしたいふ)という地位についていたことが記録に残されていますが、これは政策立案能力など文官としての優秀さが認められたことでこの地位につけたのでしょうか?

何らかの功績や実績があっての出世だと思いますが、この御史大夫という地位についていた時に呂不韋を補佐したことになっています。

ちなみに呂不韋は、同じく紀元前246年に相国(しょうこく:丞相(じょうしょう)がさらに位をすすめたもの)になっています。

 

キングダム昌平君の裏切りや最後は?史実の活躍は? まとめ

ここまでキングダムの昌平君の裏切りや最後について予想・考察してきました。

昌平君も、当初は呂不韋陣営で活躍していたものの、のちに呂不韋から離反。

中華統一を夢見る昌平君としては、同じく中華統一を狙う秦王・政の王としての資質を認めたことでの離反でした。

ただ史実での昌平君は、のちに楚王として秦の前に立ちはだかることになっていきます。

同じような展開にキングダムでもなると思われますが、どのような経緯で秦から離反することになるのでしょうか?

この点も興味が尽きないところですが、それでは以上でキングダムの昌平君の裏切りや最後に関する考察を終わります。

最期まで読んでいただき、ありがとうございました!

 
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