キングダムでは韓非子(かんぴし)の名前が登場しました。
それは李斯が韓非子の名前を語ったからでしたが、李斯は中華統一後に制定される法について、それに着手できるのはこの中華でも李斯か韓非子くらいだと言っていました。
この韓非子は韓非(かんぴ)とも言われる史実に実在した人物ですが、それでは史実の韓非子はどのような人物だったのでしょうか?
また李斯は韓非子のことを知っているようでしたが、韓非子と李斯の史実での関係はどのようなものだったのでしょうか?
そして韓非子は史実では、どのような最後を迎えたのでしょうか?
こちらでは実在した韓非子の史実の姿や李斯との関係、そして韓非子の最後についてもご紹介していきます。
ちなみに671話になってから、キングダムの物語は紀元前234年に入りました。
そして韓非子が死亡したのは、紀元前233年。
韓非子の登場と死亡が、キングダムでも少しずつ近づいていることになります。
Contents
キングダム韓非子は史実に実在する?
陰口に怯え今や全方位に良い人ぶってる自分が嫌になる女子高生の相談。
A.『韓非子』を読みなさい。
『陰口を言う人は、人生を無駄にするかわいそうな人だな』と思いなさい。完璧な答えやな(笑)#読売新聞#人生案内#出口治明#韓非子 pic.twitter.com/nsfLFJkVOx
— longvacation@出番だぞマン (@longguilt) June 21, 2019
それでは実在した韓非子の史実の実像についてご紹介していきますが、韓非子はその名前に「韓」の文字がありますが、韓の公子(君主の子供)でしたが側室の子供だったと伝えられています。
恵まれた環境に生まれたかに思える韓非子ですが、韓はそもそも弱国で、韓非子が生まれたころの韓は秦の脅威を受けながら、絶望的な抵抗を試みていた時期だったと言われています。
また韓非子は生まれつき舌がうまくまわらず、そのため弁舌は不得意だったと言われています。
ただ文章に優れていて、多くの書物を残したことでも知られていて、「韓非子」という自らの名前がタイトルになった書物も残しています。
韓非子と李斯との関係は?
またキングダムの中で、李斯が韓非子の名前を語りましたが、史実での李斯と韓非子の関係はどのようなものだったのでしょうか?
韓非子は若い頃に荀子(じゅんし)を師匠に選んで教えを学びましたが、その同門に李斯がいたと伝えられています。
また李斯はこの頃から、自分は韓非子に及ばないと思っていたとも伝えられています。
同門で学びながらも李斯は韓非子に対して劣等感を抱いていた。
このことはのちの韓非子の運命に影響を及ぼすことになっていきます。
ちなみに荀子というのは、「性悪説」を唱えていた有名な人物で、キングダムの中では荀子の下で学んだことのある人物としては、什虎(じゅうこ)城の寿胡王(じゅこおう)がいます。
このキングダムの中の寿胡王の存在も、韓非子と李斯の関係に何らかの影響を及ぼしてくるのかもしれませんね。
韓非子の思想は?
では韓非子はその書物の中で、どのような考えを披露していたのでしょうか?
韓非子は以下のような考えを主張していたと言われています。
〇厳格な法治主義を唱えていた。
〇信賞必罰を徹底することを主張していた。
1、臣下が君主に対して、このような仕事しますという約束をする。
2、実際に臣下が仕事を成し遂げます。
3、実際の仕事が当初の約束に及ばなかった時はもちろん、それ以上のものになった時も罰する。
これはかなり厳しくて苛烈(かれつ)なものだと思いますね。
〇為政者は法制を改革し、権力で臣下を統率し、富国強兵をはかって有能な人物を登用しなければならない。
これらの他にも韓非子の思想はありますが、史記に記されている韓非子の主な思想は上記になります。
韓非子由来の言葉は?
また書物の「韓非子」を由来とした言葉に以下のものがあります。
- 矛盾
- 逆鱗(げきりん)
他にも韓非子の文章が語源となっている言葉はありますが、現代でもよく使われるこうした言葉が韓非子由来であることで、ちょっと韓非子に親近感が湧いてきますね。
(え、湧いてきますよね?もしかして韓非子に親近感湧いてるの私だけ・・・?)
韓非子は韓で重用されなかった?
また厳格な法治主義を主張していた韓非子でしたが、韓非子は文章によって韓王に富国強兵の策を説いたものの、全く取り上げてもらえなかったと言われています。
特に韓非子は以下の点に憤りを感じていたと言われています。
- 害虫のような者たちばかりを登用すること。
- 上記の害虫のような人たちを功労実績のある人たちの上に置いていたこと
正直な人間が邪悪な臣下のために登用されないことに憤りを感じた韓非子は、古代の王の成功例や失敗例を調べ上げた上で、十万文字以上にわたる書物「韓非子」を書いたと言われています。
キングダム韓非子の最後は悲劇的?
隣国のトップが話題ですが、韓非子にはトップがダメになる、あるいはトップをダメにするための謀略のやり方として、8つの方法が書かれています。いつの世も、トップがダメだと戦いには致命傷となります。 pic.twitter.com/zuMNe3WLcG
— 兵法つぶやきアカウント (@douten2) August 23, 2019
韓では不遇な扱いを受けていた韓非子。
そんな韓非子に転機が訪れることになります。
それは当人の書いた書物「韓非子」の一部が、秦王・政の手元に渡ったことでした。
それを読んだ秦王・政は感嘆の声を上げました。
「ああ、これを書いた者に会えたら、わたしは死んでもかまわない」
そして李斯は、その書物を書いたのが韓非子であることを伝えます。
そこで秦王・政は、韓に対して攻撃を仕掛けていきます。
韓王もそれまでは韓非子を重用しなかったものの、頼みの綱は韓非子だけとなり、ここに至って韓王は韓非子を起用して秦に送り込みました。
韓非子に会った秦王は気に入ったものの、信任するまでには至らなかったと言われています。
ただ李斯とその同僚の姚賈(ようか)は、韓非子が秦で登用されると自分たちの立場が危ういと考えます。
そして李斯たちは秦王・政にこう吹き込んだと言われています。
「韓非子は韓の公子であるため、韓のことを思っても秦のためには尽くさないでしょう。
かといって秦に長居をさせて、そのまま返してものちの禍根(かこん)となるはずです。
いまのうちに法に照らして厳罰に処すべきです。」
これを聞いた秦王・政は、韓非子を牢獄に閉じ込めてしまいます。
すると李斯はすかさず獄中に毒薬を送って、自殺を迫りました。
韓非子は秦王に会って弁明しようとしましたが許されませんでした。
この直後に秦王は思い直して、韓非子を許そうとしたものの時すでに遅し。
韓非子はすでにこの世を去った後だったと伝えられています。
史記を書いた司馬遷は、韓非子が君主への進言の難しさを丁寧に説いた書物を残しながらも、韓非子本人が悲運を免れなかったことに対して同情の気持ちを寄せています。
(参考文献:徳間書店 史記Ⅲ 独裁の虚実)
戦国策での韓非子の行動は?
また先ほどは史記に描かれている韓非子の最後でした。
ただ戦国策には、別の韓非子の言動が記されています。
秦が四か国(具体的な国は不明)から攻められる恐れが出てきたときに、秦王・政が臣下たちに対策を尋ねました。
誰一人として答える人がいなかった時、魏の人物で秦の賓客の姚賈(ようか)が「四か国のはかりごとを断ち切って出兵を見合わせるようにしてきます」と答えます。
そこで政は、戦車や黄金を資金として姚賈に持たせたところ、姚賈はその試みに成功して秦に戻ってきました。
ただ韓非子は、この姚賈の外交成果よりも姚賈が秦の財宝を使って、諸国の王と私的な交際を深めたことを秦王に訴えます。
また姚賈は魏の国の門番の息子であることや、かつて魏で大泥棒を働いたこと、趙に追放されたなど、姚賈の家柄や過去の汚点をあげつらって、韓非子は秦王に対して姚賈をおとしいれる発言をしたと言われています。
それを聞いた秦王・政は姚賈を責めましたが、姚賈は自分に忠誠心があるからこそ諸国の王も自分を相手にしたことや、過去に大きな手柄を挙げた偉人にも汚点があったことを伝えて反論しました。
ここに至って、秦王・政は韓非子を信用しなくなり姚賈を重用して、逆に姚賈が韓非子をおとしいれたことによって韓非子は罰せられたことになっています。
(参考文献:明治書院 戦国策 上)
韓非子は厳格に法を用いることを考えていましたので、少しの私的な付き合いも許せなかったのかもしれませんね。
ただ戦国策の記述が真実であるとすれば、韓非子はあまりに堅苦しいと言えます。
また秦王が困っていた時には何も進言しなかった割には、姚賈の成果は評価せずにおとしいれようとする。
もしもこの話が本当なら、韓非子も好人物とは言えないようには感じましたが・・・
キングダムでも韓非子は、悪役として登場するのかもしれませんが、キャラ設定が気になるところですね。
キングダム韓非子と李斯との史実の関係は? まとめ
おはようございまーす♪
【今日の「生きやすさ」名言】
『水は方円の器に随う(したがう)(韓非子)』
柔軟に対応しよう。
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いってらっしゃい🙋#おは戦20814ak pic.twitter.com/EcHAuHml0v— つか🔖本で生きやすくなった人 (@tuka_books_) August 13, 2020
ここまで実在した韓非子の史実の実像についてお伝えしてきました。
キングダムも紀元前234年に入り、韓非子が自害した紀元前233年にあと一年と迫ってきました。
史実の記述から考えると、紀元前233年になってキングダムでも韓非子が登場する流れになるのかもしれません。
またどのような人物としてキングダムで登場するのか?ですが、厳格な法治主義を主張していたように融通の利かない人物としては描かれそうな気がします。
そして韓非子の名前を挙げた李斯との関係は、性悪説を唱えた荀子の元で共に学んだ同門でした。
韓非子の最後については、史記の記録では李斯の妬みによる悲劇的な死を遂げています。
一方の戦国策には、韓非子が姚賈をおとしいれようと秦王・政に讒言(ざんげん)した結果、反対に姚賈が秦王・政に信任されて、韓非子が罰せられた形になっています。
戦国策の話が本当であれば、韓非子は細かい点をあげつらって活躍した人物をおとしいれようとした人物とも言え、あまり好人物とは言えないように思いました。
キングダムでは秦王・政は、光ある名君として描かれていますし、その政が李斯の讒言をうのみにして韓非子を牢獄に入れるとは考えにくいところですが、この設定を守るべく韓非子は悪者としての登場になるのかもしれませんね。
それでは以上で、実在したキングダムの韓非子の史実に関するご紹介を終わります。